只見線と田中角栄その3(最終回)

さて前回のブログの続きであるが只見線の全通を目指す工事着工までになんだかんだの関門があり、ようやく起工式に漕ぎ着けたのが、四十年十一月十八日でした。

ところが四十年代の高度成長とは裏腹に全国的に山間僻地の過疎現象が進行してきた。
只見線沿線も例外ではなかった。

以下「只見線物語」から引用いたします

そんな世相の中で、最も大きな力強い歯止めとなるのは只見線の全通だと、沿線では真剣に考えていた。赤字線だからと廃止するのは、過疎化の火に油を注ぐことだと、その食い止めに必死になった。
赤字線廃止反対運動がとくに活発になったのは四十三年で、七月二十五日には新潟県議会議長名で、総理、大蔵、運輸の各大臣あてに廃止反対の意見書が出されている。

九月二日には全通期成同盟会から関係市町村議会に、廃止反対の決議と意見書の提出を要請している。しかしその翌々日の九月四日には、国鉄諮問委員会が、只見線をも含む全国八三線区の赤字線廃止を国鉄に勧告したのである。只見中線の建設はどんどん進渉し、その一方では廃止勧告という大変な矛盾を抱えながら、何か目に見えない不思議な力に引きずられるように、時代は大きな渦のように回転していたのである。

この大きな矛盾をどう受けとめるべきかに沿線住民はとまどいながらも、結局は陳情作戦以外に手はなく、またしても頼るは田中角栄氏しかいなかったのである。陳情書に掲げる廃止反対の 理由は、それまでの建設促進陳情に使い古された内容と、何ら変わることはなかった。すなわち
①資源開発と産業育成
②沿線住民の利便と生活の向上
③豪雪地帯の唯一の交通機関
④鉄道の公共性
などである。赤字線の廃止勧告が出されたころ、新潟県赤字線廃止反対対策会議が結成された。
国鉄は四十一年度にすでに、全線区二四二線のうち黒字線は新幹線を含むたった一四線区で、 あとは全部赤字線だった。それは営業のキロ数から見ると八四パーセントにものぼっており、民間会社だったらとうに倒産している状態だった。

国鉄語問委員会は、ローカル線については地元の便益性が増進されるという見通しに立って、 自動車輸送に切り替えを期待するとした。また道路では建設に当たって地元負担をともなうが、 国鉄の場合は負担どころか、逆に市町村納付金等の名目で地元に金をやらねばならない制度に なっている矛盾点も、指摘されている。
さらに同委員会は新線建設について
①鉄道のほうが(道路より)経済的である線区は、建設線全体(六六線区)のうち七線区にすぎない。
②新線建設は国が要望するところを除いて、すべて自動車輸送に切り替えるべきだ。
③そのためには建設計画をとりやめたり路盤工など工事の進んでいるところは、自動車輸送に 適合するよう計画を修正して行くべきである。
とした。このなかには只見中線も含まれていたわけである。
この答申に対して、地元では「とんでもないことだ」と大いに反発、只見町では廃止反対町民大会(九月九日)を開いて、 「現在建設中の只見線はその全通にすべての夢を託し、もはや逆転は許されない現状にある」
と決議している。まさに逆戻りはできない状態で、只見中線の建設はどんどん進められていた。
国鉄の屋台骨がぐらつくほどの赤字を抱え、借金の利子を払うために借金を重ねなければならないという破算状態のなかにあって、さらにその赤字が助長されることが確実視される新線の建設を進めているという、どうにも不思議な現象がつづいていたのである。

国鉄という事業の性格上、赤字うんぬんより公共性を重視すべきだという理論を掲げ、渦巻く反対を押し切ってニッチもサッチもいかなくなっている現実のなかで、理論どおりの新線建設が つづけられていたことに、注目したいのである。それは政治の力あるいは政治家の力とかいわれ て、理論はあとからくっつけたのだと批判もされた。しょせんは政治家の我田引水だという見方 は、さけられなかったようだ。貝見田中線、などの陰日も、その辺から出てきたものらしい。
我田引水であろうがなかろうが、とにかく地元は田中氏の大きな力にひたすらすがりつづけた。
その盟主田中氏が、四十四年四月二十三日、東京の自民党会館で開かれた全通期成同盟会の役員会で、
「只見中線は四十六年度に全通のメドがついた(中略)。ローカル赤字線廃止などという議論が平 然と恭間を騒がしているが、国家経済の発展、国民生活の向上には鉄道が是非とも必要であり、 競ェ地方鉄道の果たす役割が大なることに鑑み、廃止などということはあり得ないことである」
と挨拶している。
只見中線の建設工事のなかで最大の難関は、六十里越え峠の下をくぐるトンネルだった。県境 の山脈のドテッ腹にでかい風穴をぶち抜いて、そのトンネルが貫通し、新潟、福島両県が地下で 結ばれたのは、四十五年九月二十八日である。
四十一年八月に着手してから四年余りかかった六三五九メートルの、当時日本で七番目に長い トンネルであった。貫通式には、大白川口からは八台のジープで田中角栄期成同盟会長をはじめ、 新潟県側の町村長ら、只見日からは工事用ディーゼルカーに分乗した篠原鉄道建設公団総裁、只見町長ほか沿線町村長らが、ヘルメット姿でトンネルまで進んだ。
「六十里越隊道」と書かれた坑名板の除幕式のあと、最後のハッパの爆発地点まで進入、田中会長と篠原総裁の手でスイッチが押された。轟音とともに崩れ落ちた岩石を踏み越えて、両県側の 参列者が歩み寄り、固い握手が交わされた。
そのときの貫通祝賀会(入広瀬小学校)でも、田中氏は、
「ローカル線の赤字は国鉄の赤字総額の六パーセントか七パーセントに過ぎないのであります (中略)。国鉄の赤字部分を止めるとすれば、もっと大きな東京や大阪の通勤通学線を止める以外にないのであります。ローカル線即赤字という程度の認識では、只見線の重要性など論ずること はできないと思います」
と述べている。

・・・・中略・・・・

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只見線とは、小出ー会津若松間の一三八キロの鉄道であり、只見中線とは、その中間にある未開通区間の大白川ー只見間に、いわば便宜上つけた名称である。その間が開通することによって 一三八キロが新たに生きるのだから、只見中線建設の意義は非常に大きかった。 そのなかでも中心となる六・四キロ近いトンネルが貫通したのだから、喜びが大きかったのは 当然である。

あとはレールを敷くだけだ、という期待に沿線の住民は胸をふくらませていた。
ト ンネルは、しかし、穴があいたからすぐ使えるわけではない。巻立てなど完成したのは、五カ月後の昭和四十六年二月二十八日であった。

只見中線は、まるで山のなかを通る鉄道であり、雪おおいも含めて全体の六○パーセントがト ンネルというモグラ線である。六十里越えトンネルをはじめ、トンネルは一○本、延べ11.8キロもあり、沢にかかる長短の橋は三○本、延べ一四四八メートル、雪おおいも二十四ヵ所で約 二○○○メートルにおよんでいる。

いよいよレールが敷かれ、電気工事も進められるなど、全通へ向けて一歩一歩着実な前進を進めている只見中線の現状など知ってか知らずか、中央では破算寸前の国鉄について、後世の分割民営化の起点とも思われる国鉄分割論が論じられていた。

昭和四十五年十二月二十日、国鉄諮問委員会から「国鉄の経営をいかにすべきか」の勧告書が出されている。
四十四年度決算で四一三七億円の赤字を抱え、東海道新幹線など九線区以外の一三八線区すべてが赤字になっていた。そんななかで只見線は、四十六年八月二十九日、ようやく全通の喜びを迎えたのである。


全通の喜び、そして車社会

全通の喜びは大変なものだった。沿線の町村あげて祝賀ムードに酔いしれた。八月二十九日に全通ということは、かなり前に決まっていたらしい。試運転は八月五日から始まった。問題はなかったが、国鉄当局 はかなり気をつかっていたようだ.
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昭和四十六年八月二十九日。この日 は朝からよく晴れていて、暑い日だっ た。
全通記念の特別列車は、小出駅を 一○時二○分に発車することになっていたので、その発車式に参列する人たちや一般町民の見物など、駅舎周辺やホームは人の山に埋め尽くされた。
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このときは、通産大臣であった田中角栄氏をはじめ、鉄道建設公団の篠原総裁、亘 四郎新潟県知事らのテープカットのあと、 高らかに鳴り渡った汽笛とともに記念列車 はすべりだした。約一○○○人の万歳の声 がどよめくなかを、小出小学校児童の鼓笛 隊、同中学校のブラスバンドに送られて、列車は次第にスピードをあげながら魚野川 の鉄橋にさしかかった。
無人駅も含めて沿線の各駅は、日の丸の 小旗を振る記念列車を迎える人の波に包ま れていた。
たとえば越後須原駅の場合、キ ラキラ輝く初秋のすすきの穂波をなびかせ て、オレンジ色の記念列車がホームに近づ くと、花火の打ち上げや小中学生のブラス バンドとともに色とりどりの風船が空に舞 い、一○○○人近い村人たちの歓声のなかに列車は静かに滑り込んだ。

記念列車に乗っている人たちの大半は、只見小 学校で開かれる全通祝賀式の参列者であったが、みんなが窓から身をのり出して、ホームで打ち振 る日の丸の小旗に応えていた。
おかっば頭の小学 生の女の子が差し出す菊の花束を、窓から身をの り出して受け取った田中角栄氏は、ニコニコと上 機嫌で彼女の小さな手をしっかり握ってくれた。
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こうした情景は、どこの駅でもほとんどおなじ だった。早朝からホームに陣取ってこのときを待 ちつづけた老人もいて、沿線あげて島奮のさめや らぬ一日であった。

只見小学校での祝賀会式典の盛大さは、あえて いうまでもない。この席上”田中線”の生みの親田中角栄氏は、いつものように大都市中心主義 の是正論、鉄道の輸送量五倍拡大論などをぶち上げて、
「この地域は北海道に次ぐ自然資源の宝庫である。(只見線は)日本海と太平洋を結ぶ重要なパイプにもなる」
と演説、しばし鳴りやまぬ万雷の拍手を浴びたのである。

全通祝賀行事は八月二十九日をはさんで、 前後かなり長い期間にわたり、広い範囲で行なわれた。新潟県側の起点小出町は、毎年八 月二十六日と二十七日が神社の祭礼であるが、 この年は祭礼にも「只見線全通記念」と冠し、 行事が相次いだ。その一つで一十六日に行な われた神社境内の演芸大会には、沿線各村を はじめ、郷のさまざまな民謡、歌謡、舞踊団 体などが競って出演し、かつてない盛り上が りを見せた。

記念列車の通過を待っていたかのように、 沿線各地から「○○村民号」「○○農協号」と 名づけた特設列車が仕立てられて、会津若松 までの旅を楽しんだ。それらのほとんどは一 泊旅行であったが、しめて七○○○円也です む時代だった。
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会津若松ではずいぶん歓待してくれ、歴史 上に有名な哀惜ただよう白虎隊の詩の玲詠や剣舞などで、旅の疲れをいやしてくれた。途 中の只見駅では、管家徳三郎町長はじめ議会議長らもホームに迎えてくれるなど、とにか くみんなが嬉しくてたまらなかったのである。 そのころの中年層は第二次大戦の戦時中から 終戦直後に結婚した人が多かったが、時代が 時代だけに新婚旅行など行かずじまいの夫婦 がざらにいた。そんなカップルのなかで、只見線の全通を祝って、結婚後二十年近くたっ て改めて旅行にと、只見線の全コースを乗っ てみる夫婦もいた。

福島側から新潟側への客ももちろんあり、 小出町では聞きなれない会津弁を駅や商店街 で耳にした。特有のアクセントを持つ福島の人たちの言葉に、店員がとまどったりした。
こうしてこの秋は、只見線全通の話題で郷中 がわき返っていた。


大正九年十一月二十二日付で「柳津-小出間の鉄道敷設促進に関する陳情書」が 国に提出されて、建設運動が創始されて以来五十年ぶり、昭和十年の着工以来三十七年ぶりの全通であることが、 いろいろな機会をとらえては強調された。

只見線の全通をはさむ前後のころは、 世の中の景気がどんどん上昇中のとき だった。いわゆる経済成長期であり、 とくに道路改良と車の普及が日覚まし い時期だった。

只見線と並行して走る一般国道二五二号線(新潟県柏崎市から福島県柳津町 まで)は、昭和四十一年度から始まっ た第五次道路整備五ケ年計画で整備さ れつつあり、順次無雪化が図られていた。
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改良され舗装された幅広い国道が年ごとに無雪化されていくのを、関係地 域の人たちは大いに歓迎し、その順番を待つ人たちは、早く早くと急きたてた。四十六年暮れから四十七年にかけ ての冬は記録的な小雪であったが、そのせいもあって、小出から入広瀬まで 無雪道路がつながったのである。

マイカーブームが只見線沿線の村々にも波及したのは、このころからである。只見線が全通する一方では、無雪| 道路が延びてマイカーがふえるという| 現象が、短期間のうちに見られた。 例として、沿線の新潟県側の真ん中にある守門村の場合を見ると、四十年十 月には村内にトラックが六九台、乗用 車はたった六台しかなかった。それが 四十六年四月末には、トラック一九○ 台、乘用事三三九台、自勤二输三○台、原付自転車七九八台という普及ぶりであった。 同時にそのころ農山村の住宅新改築ブームが押し 寄せていた。ついでにこれも守門村に例をとると、
四十一年度の三六戸につづいて年ごとに四八戸、七二戶、七九戶、六四戸、六八戶と每年新改築が続いていた。

景気はいい、仕事は山ほどあり、金はどんどん入 kmる。家は新しくなる、車はふえる。道路は県道も町村道も拡幅、舗装、無雪化が進むという傾向が各地でまるで競争のように急進展していた。

そのようななかに、只見線が全通したのである。そして全通祝賀の熱気がさめたときから、只見線の客はどんどん減りだすという、皮肉な結果になったのである。いわゆる車社会の到来であ り、あの熱狂的な全通祝賀も忘れられて、只見線は次第に沿線住民の意識から遠のいていったの である。

只見線が住民の足として最もよく利用されたのは、昭和三十年代後半から四十年代の初めごろ までではなかったかと思われる。つまり、全通以前である。


全通の前がピークで全通後に客足が遠のくとは、時代の流れとは言え、皮肉なものである。
只見線は現在、水害の影響で一部で不通状態が続いている。
田中角栄の力とは言え、これだけ地域の期待を集め全通した只見線を、このまま復旧しないでバス転換も検討されているという。
これだけは絶対避けたいものである。
復旧と同時に黒字転換となるいい知恵が出ないものか。

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