白蓮の結婚

白蓮(柳原燁子)は10歳にな るまでに、四人の母を持っことになりました。
生母が新見正興の三女の「奥津りょう」
https://katintokei.at.webry.info/201805/article_8.html
そして戸籍上の母となる「柳原初子」
次に生まれてから直ぐに里子に出された品川の乳母「増山くに」。
https://katintokei.at.webry.info/201812/article_21.html
そして10歳で養女にいかされた北小路家の養母久子 です。

本日は北小路子爵家へ燁子が養女にいかされたところからの話で す。

当時北小路家は小石川の水道町でした。
そこで燁子は華族女学校に行きたかったのに竹原の師範付属小学校に行かされました。
(その後今の北大塚2丁目に引越したといいます。)
その後どうしても華族女学校に行きたかった燁子の願いが叶い、華族女学校に通うようになりましたが徒歩で通学させられました。
当時の華族女学校は永田町ですから相当な距離がありますね。
ざっと7Kmはあります。よく徒歩で通ったもんだ。

ところがその幸せも15歳で壊されます。
北小路家の長男・資武が燁子の出生の秘密を暴露します。
そしていやいやながら資武との強制 的な結婚が行われました。
結婚が決まれば華族女学校に通うのは無駄なことと燁子は退学させられました。

燁子は16歳で一子(功光)を出産します。
そして一家は京都の鞍馬口に引っ越します。
友人の全くいない京都での燁子の孤独は募り、深い絶望の淵に立たされます。

そんな窮状を柳原家に訴え5年後、離縁を許されて柳原家に戻ります。
でも柳原初子に蟄居さ せられました。
部屋に閉じ込められた燁子を救ってくれたのは姉の信子と兄の嫁である花子でした。
(花子の姉の次女が白洲正子なんですね)
花子は白蓮に東洋英和女学校への進学をプレゼントしてくれました。
それは燁子23歳の遅き春でした。
この学校で無二の親友になったのが村岡花子なんですね。
花子が二人でてきて紛らわしいですね。
(村岡花子はNHK連続テレビの”花子とアン”のモデル)

当時の東洋英和女学校で上から二列目の右端が燁子、左端が村岡花子
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現在の東洋英和女学院画像

でもここでも幸せは長続きしませんでした。
26歳で柳原家から強いられ再婚を受け入れます。
夫は筑豊の石炭王の伊藤伝右衛門。
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燁子は伊藤家での一年間、理解に苦しむ家族構成や居場所のない孤独に苛まれ、時には自死の誘惑がよ ぎり幻滅と悔恨に明け暮れ、満たされない思 いでいました。
それが東洋英和女学校時代に習った和歌の世界に走らせます。
その時にペンネームを白蓮としたのです。
和歌の先生があの有名な「佐々木信綱」です。
この「佐々木信綱」の門下生に九条武子がいました。
九条武子は大正の三美人の一人で白蓮と交流を結びました。
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白蓮はそのころ書いた戯曲「指鬘外道(しまんげどう)」の出版の打ち合わせで宮崎龍介に巡り逢います。
白蓮は時代の革新に血を沸かす東大出の宮崎龍介に恋し伊藤伝右衛門との10年間の生活にピリオドを打ち宮崎龍介のもとに走ります。
これが有名な白蓮事件ですね。
その宮崎龍介の父は孫文を支援して、辛亥革命を支えたあの宮崎滔天なのです。

いやはや大物がどんどん登場します。
さすが白蓮さんです。
この続きはまた後で。



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