柳原 白蓮 (やなぎわら びゃくれん)

柳原 白蓮 (やなぎわら びゃくれん)はペンネームで 生まれた時の本名は柳原燁子(やなぎわらあきこ)といい大正から昭和にかけて活躍した歌人であり小説家でもある。
大正天皇の生母である柳原愛子の姪で大正天皇の従妹にあたります。
歌集を出す際に「白蓮」と名乗りました。
三度結婚して苗字が北小路→伊藤→宮崎と変わっています。
まあ才女で高貴なお方なんですね。
1885年(明治18年)10月15日生まれ - 1967年(昭和42年)2月22日)没
詳しくはhttps://bit.ly/2KGlCy6参照のこと。


父は柳原前光伯爵。
大正天皇の生母・柳原愛子の兄。
戊辰戦争で東海道鎮撫副総督となり江戸城に王政復古の大号令を伝えました。
明治維新後は外務省に入省、外務大丞として日清修好条規を締結しました。

母は前光の妾のひとりで、柳橋の芸妓となっていた奥津りょう。
士族「新見正興」の娘である 。
燁子3歳の時に21歳で病死しています。


柳原燁子は9歳で柳原家の分家にあたる子爵・北小路隨光(きたこうじ よりみつ)の養女となり、13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学。
16歳で北小路隨光の子「資武」に無理やり結婚させられ、間もなく妊娠し女学校を退学する。
男子(功光)を出産し半年後京都に引っ越すが20歳で離婚し実家に戻る。

1908年東洋英和女学校に23歳で編入学
村岡花子と親交を深め、「腹心の友」となる。

九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門(50)と1911年結婚(成金結婚?)
25歳の歳の差、令嬢と成金おやじではうまくいくはずもない。
そこに現れたのが宮崎龍介(宮崎滔天の子)という東大卒の社会運動家。
そして燁子は伊藤伝右衛門から失踪し宮崎龍介に走る。
(白蓮事件1921年https://bit.ly/2Ihbb5q

なんだかんだもめたが伊藤伝右衛門との離婚が成立し宮崎龍介と一緒になる。
あとはウイキペディアの年表を引用させてもらいます。

1922年(大正11年)5月、男児(香織)出産。
1923年(大正12年)9月、関東大震災。香織と共に宮崎家に入る。11月16日、華族除籍。以降、柳原白蓮、柳原燁子の筆名で活動(その後歌集や小説をたくさん発表している。)
1925年(大正14年)9月、長女・蕗苳誕生。
1931年(昭和6年)宮崎滔天遺族の国賓として龍介と中国訪問。
1945年(昭和20年)8月、香織、鹿児島県串木野市で戦死。(59歳)
1946年(昭和21年)1月、長女・蕗苳結婚。悲母の会結成、平和運動に参加。
1956年(昭和31年)5月、龍介と中国訪問。毛沢東主席、周恩来総理と対面。歌集『地平線』刊(70歳)
1967年(昭和42年)2月22日死去。(81歳)葬儀委員長は片山哲。

あっさり書いてしまったが、実際は波乱万丈の生涯でした。
こちらの記事が詳しくて参考になります。
https://matome.naver.jp/odai/2140471654595326101?page=1
https://matome.naver.jp/odai/2140471654595326101?page=2
https://matome.naver.jp/odai/2140471654595326101?page=3
https://matome.naver.jp/odai/2140471654595326101?page=4
https://matome.naver.jp/odai/2140471654595326101?page=5
https://matome.naver.jp/odai/2140471654595326101?page=6

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