イザベラ・バード日本奥地紀行・第二十信

第二十信  神宮寺にて 七月二十一日

(鶏肉の効果―まずしい食事―のろい旅―興味あるもの―脚気―命を奪う病―大火―安全な蔵―公衆の面前で食事―奇怪な出来事―警察の訊問―男か女か―憂欝な目つき―悪性の馬―不運な町―失望―鳥居―思いがけない招待―ばかげた事件―警官の礼儀正しさ―慰めのない日曜日―無法な侵入―じっと見る特権)

金山の戸長と夜おそくまで話をした後、翌朝とても早く伊藤が私を起して言った。「今日は長い旅行ができますよ。昨日鶏を食べたんですから」。この鶏肉のすばらしい効能のおかげで、六時四十五分に出発したが、結果は「急がば廻れ」という諺を実証するだけであった。頼まれもしないのに戸長は村中に触れを出して群集が集らないようにした。そこで私は、駄馬一頭と車夫一人とともに平穏に出発できた。ひどい道路で、けわしい峠を二つも越えなければならなかった。私は道中ほとんど歩かなければならなかったばかりでなく、もっともけわしい場所では人力車を押しあげる手伝いをせねばならなかった。

すばらしい場所にある及位(のぞき)という村では、休止して、一頭の馬を手に入れ、雄物川の上流に沿って院内まで山道を歩いた。その山道の美しさと野性味について、道中で驚いたことや景色について、小川がたちまち激流になってしまう烈しい大雨について、またこの日に経験した困難や辛い日にあったことについて、少しでも理解してもらえたらいいのだがと思う。

乾し米の練り粉と、酸っぱい黄色の木苺の食事の貧弱だったこと、やっと歩いて渡った泥道の深かったこと!私たちは主寝と雄勝の二つ峠を越えたが、十二時間かけてたった一五マイルであった。私たちのとっている道を進んで行ったのでは、この地方を通りぬけることはとてもできないだろう、とどこでも言われた。

女性はやはりズボンをはいているが、短い着物ではなく長い着物をその中にまくり込んでいる。男性は胸当てと前掛けを一緒にした綿布をつけているが、そのほかに何も着ていないか、あるいは着物の上にそれをかけている。院内まで杉の並木道をくだる道と、烈しく流れる雄物川に囲まれた村そのものが実に美しい。

院内の宿屋はきわめて心地よい宿ではあるが、私の部屋は襖と障子だけで仕切ってあるので、しょっちゅう人びとがのぞきこむのであった。このようないなかの地方で彼らの注意をひくのは、外国人とその奇異な風習だけではない。さらに私の場合には、ゴム製の風呂や空気枕、なかでも白い蚊帳をもっていたことである。日本の蚊帳は緑色の重い粗布でできており、私の蚊帳をとても賞めるので、ここを出るときには、頭髪とともに編むようにその端切れをあげるのが、きっと彼らにとって何よりの贈り物となるであろう。隣室には六人の技師がいた。彼らは私が通ってきた峠を測量していて、トンネルが掘れるかどうか調査している。それができたら、人力車で東京から日本海沿岸の久保田(秋田)までずっと行けるであろう。また少し費用を増せば、二輪馬車でも行けるであろう。

上院内と下院内の二つの村に、日本人の非常に恐れれている脚気という病気が発生している。そのため、この七ヵ月で人口約千五百のうち百人が死亡している。久保国の医学校から二人の医師が来て、この地方の医師の応援をしている。脚気をヨーロッパでは何と呼んでいるのか私には分らない。日本名は脚の病気を意味している。その最初の症状は、脚に力がなくなり、膝ががくがくしてきて、ふくらはぎが引きつり、腫れぼったくなり、神経が麻痺してくる。

東京で千百人以上の患老を調べたアンダーソン博士の研究によれば、やや急性の症状である。慢性のものは、症状がゆっくり進行し、神経を麻痺し、身体を消耗させる病気である。もしこれを抑えないと、六ヵ月から三年の間に、麻痺と消耗の結果、死を招く。第三の急性症状についてアンダーソン博士は、次のように述べている。「重い症状は、まったく突然に始まり、、急速に進行する」と述べてから、さらに言っている。「今や、患者は、身体を横にすることもできない。彼は床の上に身体を起し、絶えず身体の位置を変える。額にしわをよせ、不安そうに眼をぎょろつかせ、皮膚の色は黒ずみ、青黒い唇は開けたままで、鼻孔を広く開け、頭をぴくぴくさせている。これは、もっともひどい病気のもっとも恐しい症状を示すものである。この場合に、一瞬の休止もない。ここでは医者はほとんど無力で、脈搏と体温が落ちてゆくのを調べるだけであり、頭脳が炭化した血液によって麻痺し無感覚となる瞬間を待って、臨終の病人がその最後の瞬間を、幸いにも意識のない状態であの世へ去るのをただ見ているだけである。

翌朝、杉の大きな並木の下の泥道を進み、電柱がなくなっているのを残念に思いながら馬で九マイル行くと、湯沢に着いた。これは人口七千の町で、しゃくにさわる遅延がなかったならば、院内ではなくて、ここに宿泊するはずであった。ここへ来てみると、数時間前に火事があって七十戸焼失したという。その中には私の泊るはずの宿屋もあった。財物や人間を運ぶために全部の馬が使用されていたので、馬を求めるのに二時間も待たされた。家屋がもと建っていた地面からは、まったく何もかも消えてしまい、ただ細かい黒い灰があるだけであった。その灰燼の中に黒くなった蔵が立っていた。ある場合には少しひび割れがあったが、すべて無傷であった。もう新しい家屋の骨組みが建てられつつあった。酔っぱらいが一人死んだだけで、だれも生命をおとす者がなかったが、私が泊っていたら、きっとお金以外はすべて失ったことであろう。

湯沢は特にいやな感じの町である。私は中庭で昼食をとったが、大豆から作った味のない白い豆腐に練乳を少しかけた貧弱な食事であった。何百人となく群集が門のところに押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子をもってきて隣の屋根に上った。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、子ども五十人ばかり下の部屋に投げ出された。幸いにも部屋には誰もいなかった。誰も叫び声を立てなかった。これは注目すべきことである。数人が擦り傷を受けただけで負傷者はいなかった。やがて四人の警官がやってきて、私に旅券の呈示を求めた。あたかも私がその事故に責任があるかのような口ぶりであった。他の場合と同じく、彼らも私の旅券に書かれた文字が読めなかったので、何のために旅行しているのか、とたずねた。「この国の事情を知るために」と言われると、地図でも作っているのか、と私にたずねた。

好奇心を満足させると、彼らは姿を消した。群集は前よりも烈しい勢いでまたも押し寄せてきた。駅逓係が彼らに、立ち去ってくれ、と頼んだが、こんなことは二度と見られないから、と彼らは言った。一人の年とった農夫は、この「見世物」が男か女か教えてくれたら出てゆく、と言った。それがお前にとって何の用があるのか、と駅逓係がたずねると、今日見たことを家へ帰ってみんなに話したいのだ、と答えた。私は急に同情心がわき起り、伊藤に向って、日本の馬が夜も昼も休みなく早駆けして数週間半かかれば私の国に着けると彼らに告げるように、言った。これは、私の旅行中に伊藤がよく話す言葉である。まことに奇妙な群集で、黙って口だけ大きく開け、何時間もじっと動かずにいる。母の背中や父の腕に抱かれている赤ん坊は、眼をさましても少しも泣かない。群集が大声で笑ってくれた方が、たとえ私に対してであっても、ほっとした気持になるであろう。群集が皆じっと憂鬱げに私を見つめているのは、私を堪らない気持にさせる。

そこから一〇マイルの道路は、火事を見ようとやってくる地方の人びとでごった返していた。良い道路で、楽しい地方であった。路傍には多くの社があり、慈悲の女神(観音)の像が祭られていた。

私の馬は、まったく悪性のひどい馬であった。彼の頭は腹帯に二重に鎖でつないであるが、男や女、子どもを見ると必ず耳をそば立て、彼らに向って噛みつこうと跳びかかるのであった。私はたいそう疲れたし、背骨の痛みがひどくなったので、降りて何度か歩いたが、また馬に乗るのはとても難しかった。というのは、私が鞍に手をかけた途端に、馬は後脚をあげて私を蹴ろうとするからであった。怪我せぬようにするためには、機敏に動作する必要があった。こればかりではない。この悪い馬は、蝿を見ると、繋がれている頭をふりたてて突進する。そのたびに私の足がねじられたり、潰されそうになる。馬は、後脚を前方に蹴りあげ、鼻にとまっている蝿を後ろの蹄で追い払おうとしてはね廻り、鞍の前にあるものをすべて振り落してしまう。馬は悲鳴をあげ、躓き、古い馬沓を蹴とばす。馬子が、か弱い力で馬沓をとリ換えようとすると怒り出す。とうとう横手まで来たが、馬はその長くてうす暗い街路を主として後脚を使って進んだが、臆病な馬子の手から綱を振り切ったので、私はくしゃくしゃに振りまわされて、身体がゼリーにでもなってしまうのではないかと思うほど痛くて苦しかった。馬が悪くなるのは、調教のときに苛めたり、乱暴に取り扱ったからだと聞いていたものであったが、日本の馬の悪さの説明にはならない。というのは、人びとが馬をこわがるのは大変なもので、彼らは馬を恐るおそる取り扱う。馬は打たれることも、蹴られることもない。宥めすかしながら馬に話しかける。概して日本では、馬の方がその主人よりも良い生活をしている。たぶんこれが馬の悪くなる一具因であろう。「しかるにエシュルンは肥え太って、足で蹴った」(『旧約聖書』申命記、三十二章十五節)。

横手は人口一万の町で、木綿の大きな商取引きが行なわれる。この町のもっとも良い宿屋でも、りっぱなものは一つもない。町は見ばえが悪く、臭いも悪く、わびしく汚く、じめじめしたみじめな所である。町の中を歩いて通ると、人びとは私を見ようと風呂から飛び出てきた。男も女も同じように、着物一枚つけていなかった。宿の亭主はたいそう丁寧であったが、竹の梯子を上って、私を暗くて汚い部屋に案内した。部屋には、怒りたくなるほどたくさんの蚤や蚊がいた。横手では毎週木曜日に雄牛を殺すということを途中で聞たので、夕食にはビフテキを食べ、もう一片は携行しようと心に決めていたのだが、着いてみると、全部売切れで、卵もなかった。そこで米飯と豆腐という哀れな食事をした。山形で買った練乳は捨てなければならなかったので、いくぶん餓(ひも)じい思いをした。私は疲労やら、蟻に咬まれた炎症で、何やら気分がすぐれなかったが、翌朝早く、いつもの朝のように暑くて霧が出ていたが、神社の社、すなわちお宮を見に行った。一人で出かけたのだが、群集に会わずにすんだ。

宮の境内に入るのに、例によつて鳥居をくぐった。鳥居は二〇フィートの高さの二本の大きな柱から成り、横に梁をわたしてある。上の梁は柱の上に突き出ており、両端が上にはねていることが多い。よくあることだが、全体がにぶい赤色に塗られていた。
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鳥居《鳥の居るところ》と呼ばれるのは、昔、神に鳥が犠牲としてではなくて奉納されたものだが、やがて鳥居の上によくとまるようになったからだといわれる。〆め縄には藁の飾り房と紙片が下っていて、入ロにかけ渡してあるが、神道の特別な象徴となっている。石を敷きつめた境内には美しい花崗岩岩の燈籠が同じく美しい花崗岩の台座の上にいくつか立っていた。これはほとんどどこの神社でも、お寺でも、つきものとなっている。

横手を出ると、非常に美しい地方を通過して行った。山の景色が見え、鳥海山がその雪の円屋根をときどきのぞかせた。雄物川は最近の出水で上手を崩し橋を流していたので、二隻の危っかしい渡し舟で横切った。そして六郷という人口五千の町に着いた。

ここはりっぱな神社や寺院があるが、家屋は特にみすぼらしかった。群集が猛烈に押し寄せてきたので、私はこの時ほど窒息しそうになったことはない。そこでは、警察の親切な取り計らいのおかげで、相当な金持の商人の仏式の葬式に参列することができた。その厳粛さと端正さは、大いに私の興味をそそった。伊藤は、眼前に進行する式を、きわめて明確に説明してくれた。私は日本の婦人の着物を茶屋から借りて、頭に青い頭巾をかぶって行ったから、誰にも気づかれなかった。しかし、前の方でわずかに合わせる着物に気をつかって、非常に疲れを感じた。私のなすべきこと、してはいけないことを、伊藤は多く指図したので、それを忠実に守った。私はただ、外国人を親切にも出席させてくれた人びとの気に触らぬようにとのみ心配していた。

その人の病気の期間は短くて、病気の平癒を祈って神参りをする隙もなかったという。ふつう死亡したときには、頭を北向けにする《北は、日本人が生存中は用心して避ける方角である》。そして襖の近くに安置し、襖と亡骸の間に新しいお膳を置く。その上に油皿を置き燈心を灯し、米のねり粉の生のままの団子と、一皿の線香をあげておく。人が死ぬと坊さんは、直ちに戒名《死後の名前》を選び、白木の位牌に書き、死体の傍に坐る。お膳、お椀、お茶碗などに精進料理を盛り、その傍に置く。お箸はお膳の逆の位置、すなわち左側に置く。四十八時間が経つと、死体をお湯でゆすぎ、棺に入れる支度をする。坊さんはお経を唱えながらその頭を剃る。金持も貧乏人も、すべての場合に、着物はふつうの製品であるが、真白いリンネルか木綿である。

六郷の近くの大曲という町で大きな素焼の甕が製造され、金持は、死体を収容するときこれを用いることが多い。しかしこの場合には、二つの四角の箱があった。外側のものは、松材をていねいに削ったものである。貧乏な人は、いわゆる「早桶」で、松材の桶に竹の箍(たが)をかけ、蓋をしたものである。婦人が埋葬されるときには、結婚式の日につけた絹の着物を着て、足袋を身体の傍か足もとに置く。ふつう頭髪は後ろにゆるやかに垂らす。大金持は棺に朱砂を詰める。非常に貧乏な人は籾殻を用いる。しかしこの場合に、朱砂を詰めたのは口と鼻と耳だけで、棺には粗い香を詰めたそうである。亡骸はふつう坐る姿勢で桶や箱の中に置かれる。人間の身体が、死後数時間して、箱の大きさぎりぎりのところまで入れるとはいえ、限られた空間にどうして押しこめることができるのか、私にはわからない。硬直している死体を押しこむには、坊さんが加持祈祷をした土砂と呼ばれる砂をまけば死体は柔軟になるという。しかしこの説も破られたから、この作用は依然として謎である。

家の玄関の外側には小旗や飾りの俸が立っている。青い服装の上に翼に似たうす青い羽織をはおった二人の男が来る人を接待し、もう二人の男が水を入れた椀と白絹クレープの手拭いを差し出した。私たちはそこから大きな部屋に入ってゆくと、部屋は非常に美しい多くの衝立で囲んであった。その襖には、蓮、鶴、牡丹が全くの金地の上に生きいきと描かれていた。部屋の隅に棺があり、白絹の覆いの下に安置してあった。その上の架台には、造花の白い蓮が非常に美しく並べてあった。亡骸の顔は北に向けてあって、六人の僧が非常に豪華な衣裳をして、棺の両側に坐り、さらにもう二人の僧が小さな臨時の祭壇の前に跪いていた。

未亡人はきわめて美しい女性であったが、亡くなった人の近くに坐り、父と母の下座にあった。彼女の後ろに子どもたち、親戚、友人が来て並んで坐った。いずれも青と白の羽織を着ていた。未亡人は顔を白く化粧し、唇は朱で赤くしていた。髪はていねいに結われており、彫刻のある鼈甲の簪で飾っていた。彼女は空色の絹の美しい着物を着て、りっぱな白クレープの羽織をまとい、真紅のクレープの帯は金の刺繍がしてあった。彼女は未亡人というよりも、結婚式当日の花嫁のように見えた。実に、着物は美しく、青や白の絹物が多いので、部屋は葬式というよりもお祝いのときのように見えた。客が全部到着すると、お茶菓子が出された。もうもうと香が焚かれ、読経の唱和があり、やがて墓場に向ってぞろぞろと動き始めた。その間に私は寺の境内の門のところに立っていた。

行列には亡くなった人の父や母は入っていなかった。しかし行列をしている会葬者はすべて親戚のものであると思われた。戒名を書いた細長い木札を最初の僧が持ち、蓮の花を次の僧が持ち、次に十人の僧が続いた。二人ずつ並んで読経を唱和した、次に棺が来た。四人の男がそれを台に載せて運び、上に白い布がかけてあった。それから未亡人、その他の親族が続いた。棺は寺の中に運ばれ、台の上に安置された。香が焚かれ、祈濤がなされ、次にセメントで縁をつけてある浅い墓場へ棺が運ばれた。僧侶が祈祷している間に、適当な高さまで土が盛られ、人びとは散会した。派手な服装の未亡人は、お伴もなく、一人で家へ帰った。泣き男が雇われることもなく、嘆き悲しむ様子も見えなかったが、これほどおごそかで、うやうやしく、礼儀正しい儀式はないであろう《私はそれから多くの葬式を見た。主として貧乏な人の葬式であって、儀式の手間を大分ぱぶいて坊さんが一人だけであったが、それでも儀式の端正さは特に目立った》。僧侶に対する謝礼は二円から四十円あるいは五十円まである。寺院を囲む墓場はきわめて美しい。杉の木は特にりっぱである。いたるところ墓石が立ち並び、他のすべての日本の墓地の場合と同じように、美しく清掃されていた。墓に土を盛ってしまうと、その上に実物大の桃色の蓮を立てる。また、漆塗りのお盆をあげる。その中には、お茶や酒、豆、菓子をのせた漆塗りのお椀がある。

六郷の寺は非常に美しい。その飾りが堅固なことと、趣味がすぐれて上品なことを除いては、カトリックの教会とほとんど変らなかった。百合の花をたて燭台を点している低い祭壇は、青と銀色の布でおおわれ、高い祭壇は、真紅と金色の布で包まれ、その上に、閉じた厨子と香炉と蓮の花瓶があるだけであった。


人力車に乗って六郷を出てから間もなく路傍の茶屋で休んだが、そこで脚気が流行していたときに院内に滞留していた若い医師に会った。彼は礼儀正しく感じのいい人物で、久保田(秋田)の病院を訪問するように私を招待した。彼はそこの若い医師である。彼は伊藤に、「西洋料理」を食べられる料理店のことを話した。これは楽しい期待で、伊藤はいつも私に、忘れないでくれ、と念を押している。

いつものように、私が先頭になって、非常に狭い道路を進んでゆくと、囚人を縄で連行してくる男と、その後ろについてくる警官に出会った。私の車夫は、警官の姿を見ると、すぐさま土下座して頭を下げた。あまり突然に梶棒を下げたので、私はもう少しで放り出されるところだった。彼は同時に横棒のところに置いてある着物を慌てて着ようとした。また人力車を後ろで曳いていた若い男たちも、私の車の後ろに屈んで急いで着物をつけようとしていた。私はこのような情ない光景を見たことがない。私の車夫は頭のてっぺんから足の先まで震えていた。スコットランドの長老教会の祈祷の中で聞く奇妙な文句、「両手で口をおおい、ひれ伏して口を地面につけよ」そのままの姿であった。彼は文字通り地面に這いつくばって、警官が話すたびに、頭を少しあげてから以前よりも深々とお辞儀をした。その日はたいそう暑かったので、私は彼のために取りなしてやった。他の場合なら逮捕するのだが、外国人に迷惑をかけるから今日のところは大目に見よう、と警官は言った。私の車夫はまったく年配の男で、二度と元気よくならなかった。しかし道路を曲って、警官の姿が見えなくなると、二人の若い車夫はたちまち着物を放り出し、大声で笑いながら、梶棒をとり全速力で駆け出したのである!

神宮寺に着くと、私は疲れて、それ以.上進めなかった。低くて暗く、悪臭のする部屋しか見つからず、そこは汚い障子で仕切ってあるだけで、ここで日曜日を過すのかと思うと憂鬱であった。片側からは、徽の生えた小庭が見え、ぬるぬるした藻類が生えていた。その庭先に隣の家の人びとが絶えず入りこんで、私を見ようとしていた。反対側は街路に出る通路に面しており、そこで旅人たちは足を洗う。次の側から台所に通じ、もう一方の側からは玄関に出る。暗くならないうちから蚊が飛びまわり、蚤は砂蝿のように畳の上をはねまわった。卵はなくて、米飯ときゅうりだけであった。

日曜日の朝五時に外側の格子に三人が顔を押しつけているのを見た。夕方までには障子は指穴だらけとなり、それぞれの穴からうす黒い眼が見えた。一日中、静かな糠雨で、温度は八十二度。暑さと暗さ、そして悪臭はとても堪らなかった。午後には小さな行列が家の前を通った。一台の飾られた駕籠を僧侶が担いで、ぞろぞろ歩いていた。僧侶たちは真っ赤な式服や白い法衣の上に肩マントやストラ(祭服)をかけていた。この箱には紙片が入っていて、人びとの恐れる災害や人間の名前が書きこんであるという。僧侶たちはこの紙片を川に持っていって捨てるのである。

私は蚊から逃れるために早く床についた。いつものように行燈はうす暗く部屋を照らしていた。九時ごろ眼を閉じると、足をひきずって歩く音やささやき声でざわざわし、しばらく続くので、眼を上げたところ、向い側に約四十人の男女と子どもたち《伊藤は百人だという》が、顔を灯火に照らされながら、みな私の姿をじっと見ていた。彼らは、廊下の隣の障子を三枚、音もなく取り去っていたのである!私は大声で伊藤を呼んだ。手を叩いても、彼らは身動きもしなかったが、伊藤が来ると、羊の群のように逃げ去った。私は、戸外で群集が集ってきてじろじろ見られることには、辛抱強く、時には徴笑してがまんしてきた。しかし、この種の侵入には耐えられない。伊藤は反対したけれども、て、家から人びとを追い出してもらおうとした。宿の亭主にはそれができないからである。

今朝私が着換えを終ると、一人の警官が私の部屋にやってきた。表面上は人びとの不作法を詫びるためであったが、実際には警察の特権で私をじろじろ見ていた。特に彼は、私の担架式寝台と蚊帳からほとんど眼を放さなかった。それらを見世物にすれば一日に一円儲ることができる、と伊藤は言っている!人びとは今まで外国人を見たことがないものだから、と警官は言った。

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