只見線と田中角栄その2

只見線と田中角栄の続きです。

田子倉ダムの工事用路線がようやくJRに買い上げられ会津線は会津若松から只見まで繋がりました。
でも地元の悲願は会津若松から小出までの全通です。
その全通を妨げているのが福島県と新潟県にまたがる六十里越という峠である。

その悲願の峠越が達成される様子を「只見線物語」から見ていきましょう。

田中線、着工へ

昭和三十七年三月二十九日。この日は、只見線を語る上で忘れてはならない、大いに意義深い日である。
というのは、只見線の全通が決まった日だからである。
決まったのは第三十五回鉄道建設審議会であり、それは前日の二十八日から東京赤坂のプリン スホテルで開かれていた。
そのときの審議会は、会長が赤城宗徳氏で、小委員長が田中角栄氏で あった。その小委員会には、新規着工線や調査線をどうするかの審議がゆだねられていた。

着工線はそのとき三八線あったが、緊要性などを見て、そのなかから三線だけ選んで着工すべ しとした。
その三線のなかに只見線が入ったのである。
いや、田中小委員長がみずから全通期成 同盟会長をしている只見線を、そのなかに入れた、のである。

このときの説明に岡本鉄道監督局長は、電源開発の専用線の国鉄編入を述べたのち、只見線に ついて「この線は奥会津開発ということに本来意義があるのであり、会津川口ー只見間では不充分であるので、上越線の小出に結んで目的が達成されるものと考える次第」であると述べている。

鉄道の新線が建設される場合はまず予定線となり、それから調査線に進んで、さらに着工線とされるのが通常のパターンであるが、只見線は予定線から調査線をとび越えて一挙に着工線に なった。
着工線はめったに決めなかったし、決めても実際に着工するまでには年月がかかった。
それが このときの只見線は、一足とびに着工線になったばかりか、ただちに着工されるようランク付け されたのだから、世間をあっと驚かせたのである。

もちろん、これには堂々たる理由づけがなされていた。
それは鉄道建設審議会長名で行なわれ た、総理大臣以下各大臣あての建議のなかにうたい込まれている。すなわち
①産業発展は大都市及びその周辺に集中して、今後の効果的拡大発展に支障を来すおそれがある。
②均衡ある発展を実現するために、産業の地方分散、適正配置を推進する必要がある 等である。
これはとりも直さず田中角栄氏の持論であった。
この建議から見ても、田中氏がこのときの審議会をリードしていたであろうことは充分推察できる。
あっと驚いた世間の声は、次の瞬間からごうごうたる批判非難の声に変わった。
マスコミは各 紙とも「国鉄にまた赤字線!?」などの見出しで扱い、赤字路線になるのを承知の上で建設するのだ、等の厳しい批判が少なくなかった。
しかし、沿線の喜びようは大変なものだった。
期成同盟会の役員らは審議会の当日、プリンスホテルに参集、一室に待機してその結果やいかんと固睡をのんでいた。

どうやら着工線に持ち込 まれそうだという情報に、地元は地元で落ち着かず、関係町村長はただちに上京した。
只見町で はたまたま町議会を開いていたが、着工線に決定したという知らせに、議会を中断してビールで 乾杯、万歳を三唱して、すぐさま全員が上京した。
昆奮なおさめやらぬ四月一日、新潟県側は北魚沼郡の七町村長、福島県側は只見、金山、田島 の三町長名による着工線採択の感謝状が、田中角栄氏はじめ鉄道審議会の委員や運輸省、国鉄などへ送り出された。
さらに十日には期成同盟会として、池田勇人総理以下運輸大臣、政務次官、鉄道審議会の委員、 国鉄総裁その他関係国会議員を訪ねまわり、お礼の挨拶をした。
また五月に入ってからだが、北 魚沼の七町村と只見町の議会は、それぞれ田中角栄氏への感謝決議をし、町村長が連署して田中 氏のもとへ決議文を送っている。

着工線に持ち込むことができたのは田中氏の力であるとしても、その陰には地元の運動のタイ ミングのとり方のうまさもあったようである。
三十六年七月、田中氏が自民党の政務調査会長に 決まったとき、期成同盟会の町村長らは、絶好のチャンス到来と受け止めた。
この機を逸しては 只見線全通もおぼつかなくなると、陳情活動に拍車をかけたのである。
三十六年に新潟、福島両県から上京しての陳情では、しかし着工線にしてくださいなどとは 願っていなかった。
制度上そんなことはできないと思っていたから、まず調査線に編入してくだ さいと陳情してきたのである。
それが調査線を飛び越えて一挙に着工線になったのだから、地元にとってはこんな喜びはなかったわけである。
第四十国会では、田中氏は衆議院の本会議で、国鉄の新線建設を強調している。
そうした主張 が裏付けられ、現実のものとして只見線の上に現わされてきたといえよう。

五月三十一日、ふたたび開かれた鉄道建設審議会で、未開通区間の一三・七キロは「只見中 線」と名付けられて、三十七年度分の予算として三○○○万円が配分されることになった。
そして六月七日には、「只見線建設採択決定祝賀、同全通促進地元民大会」という大会が小出高校で開かれた。
このときは田中角栄氏自身も出席したし、新潟、福島両県選出代議士、両県知事 および議会議長、沿線市長村長議員ら、約五○○人が集まっての大会となった。
あと一三・七キロでしかない。もう一歩だという気持ちがみんなの心中にあった。
しかし大白 川から只見までのこの区間は、全線のなかで最も骨の折れるところだった。
山また山、谷また谷 の厳しい地形で、しかも日本一の豪雪地を通過しなければならないのである。
事前の調査はきわ めて慎重に行なわれなければならなかった。
新線建設には必ず行なわれる沿線の経済調査が、八 月から国鉄新潟支社の手で始められた。
この調査では、たとえば森林資源は約九八○○万石、鉱山資源では開発されている鉱山七カ所、 未開発鉱山二十五カ所をあげている。
開発目標の例ではいずれも精鉱で、銅は一七○○トン、鉛 二六○○トン、亜鉛三九四○トンなどの数字が並んでいる。
そのほか農業生産量など大きな数字 が並んでいるが、この種の数字はいささかアテにならないという感じもある。
適当に数字を並べ たといっては語弊があろうが、どうもそんな印象も受ける。

経済圏では新潟県は長岡市を含む三市三郡の三七万人余、福島県は会津若松市のほか三郡の二三万五○○○人余がこの沿線にあるとし、両県で一○万八○○○世帯がこの鉄道の支配圏に入る としている。
どうもオーバーな印象を免れないが、さらに沿線はやがて一大観光地になるだろう としている。
只見中線という名称の由来はきいていないが、おそらく全通したら只見線の真ん中に位置する 部分、というほどの意味合いから名付けられたものと思われる。

名称なんか少しくらいどうでも いい、名より実だというのがそのころの沿線の人たちの気持ちであった。
しかしいつの時代にも、 またどこにでも、一人や二人のユーモアのある人や皮肉屋というものはいるもので、この只見中 線について、こんなこともいわれていた。
「あれはホントは”只見田中線”、という鉄道なんだ。だけど”田中線”、ではあんまりあからさまだから、そこで田抜きにした。だから一字抜けて”只見中線”になったんだ」 そんな冗談が只見線の列車のなかで大声で話し合われながらも、みんながその”田中線”の早 く建設されることを祈っていた。

三十八年八月には、先にもふれたように福島県側の会津川口ー只見間の電発専用鉄道の国鉄編 入部分が営業開始になったが、それを日前にして、中央では鉄道の新線建設のため、新しい”公 団”を創設しようという動きがさかんになっていた。
新線建設を促進しようという国会議員団や促進全国協議会などの活動もめだってきた。
公団方式による新線建設論は、前年三月の鉄道建設審議会で、すでに方針が打ち出されていたことであった。
しかし、新線建設は国鉄の赤字を増 すだけだという主張も多く、難航を重ねてい た。
この公団の設立が案外手間どったため、 只見中線は建設が決まっていながら、着工が 遅れてしまったのである。

公団設立が三十八年十二月二十日の衆議院 運輸委員会に付託されたところから、本格的 に設立の是非論が論じられる審議にかかった。
三十九年二月、同委員会を通過、衆議院の本 会議で可決され、参議院も通って公布された のは二月二十九日である。
要するに、赤字に苦しむ国鉄だけに厖大な新線建設費を負担させないで、政府も資金を 出し合おうというもので、国鉄と別の機関を 設けて事業に当たらせようというのが、その 基本的な考え方であった。
この建議をやったのがほかならぬ田中角栄 氏で、田中氏が自民党の政調会長であった昭和三十七年、同時に鉄道建設審議会の小委員長として、公団の設立を建議していたのである。
そ の建議が行なわれて間もなく、田中氏は大蔵大臣になった。そのため、自分で建議した公団設立 を、自分で受けるという立場になったわけである。
ということは、その建議を認めないわけにはいかなかったわけだ。
ところが池田総理も川島副 総理も、後に長く総理大臣をやった佐藤栄作氏らも、この公団設立にはあまり賛成ではなかった ようである。
田中氏とこれらの人たちとの間に微妙な折衝があったらしいが、とにかく大蔵大臣が認めると いうことで公団は設置され、只見中線の建設も着工されることになったのである。

どうなること かと心配していた地元期成同盟会の役員らも、ホッと胸をなでおろした。
十月に入ると、鉄道建設公団の東京支社長らが現地を視察するなど、ようやく動きが活発に なってきた。
支社長田中倫治氏ら五人の一行を、地元が大喜びで迎えたのが四日だった。
その日 は小出駅から大湯温泉に向かい、大いに歓待して、一泊してもらった。
一行は翌五日には只見線で大白川まで行き、まず平石川案ルートを五味沢まで視察して戻り、 ふたたび大白川駅から六十里を越えて、田子倉ダムを見ながら只見町まで踏査したのである。
前にもふれたように、大正時代に計画された当初の建設ルートは大部分が田子倉ダムによって水没 したため、全体に路線を山側へ追い込まざるを得ず、そのためにトンネルが長くなるという新た な問題が横たわっていた。

期成同盟から要請も行なわれていたが、それがなくても建設公団がくわしい現地調査をやらないわけにはいかなかった。
どこを見ても山ば かり。その間に満々たる水を温えた田子倉湖。
その湖上を船で渡りながら、視察団の一行は、 「これはとても大変な場所の鉄道建設だ」と 痛感したそうである。
さらに公団を心配させたのは、日本一の豪 雪である。
四十年一月十八日に開かれた期成 同盟会の役員会の席上で、公団の東京支社長 は「ことしの最も雪の多いときに現地を見て、 くわしい調査をしたい」と述べた。

実はそれから間もない二月三日、三八豪雪 (別項)で小出ー大白川間が不通になったときの二の舞が、福島県側でも起こってしまった のである。
ダウンしたのは、電発会社から移譲を受け て営業を始めたばかりの会津川口ー只見間 だった。
国鉄は引き受けた以上は赤字だから といって放ってはおけないと、人力も機械力も投入して最大限の努力はつづけたのだが、 雪は降りやまず、そのうちに只見町蒲生地 内でラッセル車が立往生した。
これは大変 だと応援にかけつけたラッセル車が、今度 は途中で故障してミイラとりがミイラになるアクシデントが重なって、ついにこの区 間が麻痺してしまったのである。
只見町は、町から人力を投入してでもと 申し入れたりしたが、国鉄はとても見込みが立たないとその応援申し入れを遠慮し、運転を断念した。
仮に人力で何とかするに しても、二八キロもの区間はとても大変な 作業となることだろうし、よしんばそれで開通させることができたとしても、基本的 な防雪設備が不完全であったため、とても 危険で運転はできないというのが本音で あった。

この区間は、とうとう五月一日まで再開することができなかった。
四月下旬衆議院の災害対策特別委員で、福島県選出の代議士として只見線問題には骨を折ってくれた八田貞義氏らが、この不通問題をとり上げたが、国鉄側は、電発会社から引き受けたままで防災設備を充分整えないうちに営業運転を始めたことが、こうした事態を招くもととなったと説明した。
二八キロの間に、なだれの危険箇所が十九カ所もあったので ある。

さて、話を戻そう。
三月十八日、鉄道建設公団の東京支社長は、ふたたび大自川駅頭に立った。
そのときは三日ばかり滞在して、豪雪の様子を見たり、地元民の話をきいて帰ったが、支社長らはこの鉄道建設が雪との闘いであることを覚悟したものと思われる。

こうして調査はくり返され、充分資料もそろえるまでには至ったが、肝心の着工にはなかなかこぎつけられなかった。というのは、早い話が金がなかったのである。公団はまず金策でひと骨折らねばならなかった。

四十年四月、公団から新潟県に対して 「事業費の半額分の鉄道建設利用債を引き受けてくれれば、四十年度に着工します」 といってきた。
そこにいう着工とは只見中線と北越線についてであったが、これは大蔵大臣田中角栄氏が、予算編成に当たって公団の事業費二五四億円を認めるには、只見中線と北越線を着工することというヒモつきであった。そのなかには、半分近い一二五億円の債権が見込まれてい たのである。

新潟県としてもこれは否というわけにはいかなかったのであるが、そうはいっても、苦しい財政のなかからひねり出すのは、現実には相当困難なことだった。両線の県内分の延長は約八〇キロあり、その分の建設費はざっと一三○億円とされていた。その半額を出せといわれても、それ は正直のところ無理な相談だった。
その辺は、実は公団も政府も先刻承知のことらしく、半額と はいったがとりあえず一億円を何とかしてくれということだった。

いくら貧乏県でも、それくらいはしかたがあるまいと、県も引き受けざるを得なかったが、さ りとていざとなれば余分の金など一円もない。
そこで、第四と北越の両銀行に、当面肩代わりし てくださいと頼み込んだ。つま り借金である。
そしてその利子 は地元町村で負担しなさい、と いう便法を考えだした。 公団や県にとっては便法で あったかもしれないこの方法も、 地元町村にとってはあたかも受 益者負担的な印象があり、いろ いろな論議を呼んだ。もともと債券なんだから、半強制的に引 き受けさせるなどというやり方はすべきではない、とする声や、 これまで地元町村は骨身を削って 運動してきたし、全通すれば新潟、 福島両県を結ぶ大きな懸け橋とな り、広範囲にメリットをもたらす 鉄道となる。それなのに、沿線な るがゆえに負担を強いられるのは おかしい、などの論議があった。

しかし、それを断わったらどうなるかという不安も大きかった。
せっかくここまできた運動であり、 いま一歩で全通というときになってつまずきたくはないという気持ちは、関係町村が一様に持っ ていたと思われる。そして結局は、県が考えた便法どおりに運び、四十一年度には期成同盟会が借金の利子として一一万二五○○円を支払った。
借金の期限は四十一年十一月十六日であったが、とにかくこの金策もメドがついて、「それでは着工しましょう」という感じで只見中線の起工式が行なわれたのが、それより一年前の四十年十一月十八日であった

三十七年三月の着工線決定以来三年八カ月間、ずっとこの日を待ちっづけた地元にとっては、昭和十七年の大白川までの開通に匹敵する大きな喜びであった。入広瀬小学校で行なわれたこの起工式には、約三○○名が出席して起工を喜び合い、祝い合った。
いよいよ工事が始まってみると、最初から予測したとおり、最も苦労したのが雪対策であった。
四十一年十二月一日には、豪雪のため工事を一時中断せざるを得なかったのである。

六十里越え峠

新潟、福島両県に跨がる六十里越え峠は、ずいぶん昔から越後と奥州会津地方との交流の道と して開かれてきた。六十里という呼び方は実際の距離を十倍にしたもので、馬を使えない険しさ のなか、すべて人の背で荷物を運ばねばならず、六里が六十里にも相当する苦難の道であるとい う意味から、こう呼ばれたものだという。

同様な呼び方をされているところに、南蒲原の下田村からやはり福島県只見町へ通ずる八十里越えがある。
江戸時代の文書によれば、六十里越えは六里十五町で、会津側は田子倉村の地内で 二里、越後側は大白川新田地内で四里十五町であるとしている。

どうやら戦国時代には、すでにこの峠道は利用されていた模様で、両側の交流はそのころから 深まってきたらしい。大白川の人たちの先祖は、ほとんどが会津から移住してきたのだときいて いる。さらに、現在の守門村あたりまで、会津の人たちとの縁組みはよくあったという 。



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