只見線と田中角栄

私が只見に住んでいたころ只見線は会津若松から会津川口まで営業路線が開通しており、田子倉ダムの工事用路線は只見までは延びていた。
田子倉ダム工事が終わり、昭和36年に只見から勿来に引っ越したため只見線のその後がどうなったか少年の私には分からず、大学になって只見まで営業路線を延ばしたことを知った。
その当時はよかったなーくらいの認識しかなかった。
工事用路線がJRの営業路線になったいきさつについて今回「只見線物語」を読んで初めて知った。
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なんとそこには今話題の田中角栄が深く関わっていたのである。

今回は只見線の会津川口~只見間がJRの路線になったいきさつを「只見線物語」で紹介します。

その前に只見線が順次延伸された歴史をかいつまんで紹介しますが、只見線という名称は新潟側の小出から大白川までを言っていた。福島県側の若松から只見までは会津線という名称であったが、新潟県と福島県が繋がってから若松から小出までを通して只見線と呼ぶようになったのである。

・大正15年10月15日会津線会津若松~会津坂下間開業
・昭和3年11月20日 会津線全津坂下~会津柳津間開業
・昭和16年10月28日会津線全津柳津~会津宮下間開業
・昭和17年11月1日 新潟具側:小出~大白川間開業
・昭和31年9月20日会津線全津宮下~会津川口間開

このころ私は本名に住んでおり、その後すぐ只見に移った。
・昭和32年7月19日電源開癸(株)田子倉專用鉄道会津川口~只見間開通
・昭和34年8月30日電源開癸(株)田子倉專用鉄道使命 完了

この後私は只見から勿来へ引っ越した
・昭和38年8月20日電源開発(株)より譲渡され会津線会津川口~只見間開業

それでは「只見線物語」の紹介です。
ただしこれはまだほんの一部です。追って六十里越え開通も紹介したいと思います。

田中角栄氏を同盟会長に

電源開発の工事専用鉄道が開通する一年ほど前の昭和三十一年九月十一日、新潟県側では期成同盟会の只見線全通懇談会という会合が開かれていた。
それは総会に置き替えられるべき会合でもあったが、そこで役員改選が行なわれた。それは期成同盟会長の交替に的が絞られていた。

昭和二十八年一月十四日の同盟会結成以来、三年九カ月にわたって会長をつとめてきた参議院議員西川弥平治氏の辞任によって、後任を誰に願おうかということが大きな問題だった。
幹部たちの間では内々に決めた腹案はもっていたものと思われるが、このとき初めて後の内閣総理大臣 田中角栄氏を会長に迎えようということになったのである。

それまでにも田中氏と地元町村とのつながりは深まってはいたが、只見線に関しては表面的にはあくまで西川氏が同盟会長であり、直接的な運動にも田中氏は先頭には立っていなかった。
し かし、田中氏の卓抜した政治力に大きな魅力を感じていた選挙区の人びとは、何かにつけて田中氏の力に頼り始めていた。

その田中氏と只見線との因縁は、実は、昭和一十年代から始まっている。
代議士になりたての田中氏と、山深い小さな村の三十代の村長として衆目を集めていた入広瀬村の佐藤宏氏は、何かにつけて意気投合していたらしい。佐藤氏が新進気鋭の田中角栄という代議士を、将来必ず大物 になると見込んでの嘱望であったかもしれない。

昭和五十年に入広瀬村が刊行した『村造りの記録』という本がある。それは、佐藤宏氏の村長時代二十四年間の行政記録であるが、そのなかに、佐藤氏自身が書いた田中氏と只見線に関する 注目すべきエピソードがある。
佐藤氏自身いまではもう記憶もうすれかけているが、そのとき田中氏が尺見線建設について、よし、やるよ」と断定的ないい方をしたことだけは覚えている。

それはおそらく昭和二十六年ごろのことだろう。なかの記述から推して季節はたぶん初秋のころではなかったかと想像されるが、よく晴れたさわやかなある朝のことである。
村長が自宅にい たのだから日曜日でもあったのだろう。
誰か訪ねてきた様子に玄関に出てみた佐藤氏の前に、代議士田中角栄氏がポッンと立っていた。
秘書も連れずにたった一人で。

先生が急に一人で一体何事か と一瞬、佐藤氏はとまどったらしい。驚いている佐藤氏に田中氏はいった。
「佐藤さん。地方開発のためにあんたが一生かけてやりたい仕事は何ですか」
「それは只見線と六十里越えの道路ですね」
「よし。それじゃ早速その現地を見せてください」
そうした会話が交わされたのち、それではということになって二人は、入広瀬駅から只見線に乗り込み大白川へ向かった。

田中氏の来訪が何の前ぶれもなしに、あまりにも突然であったため、迎える準備も案内人の手配も何もしていなかった。
そのころは電話も村に何台という状態だったので、連絡して出迎えをなどといっても、簡単にはできなかったのである。

大自川へ降りるとちょうどいい具合に、日通の仕事をしていた住安良平さんという人がいたので、奥への道案内を頼んだ。
そして三人で六十里越え峠の方へ歩きだした。そのころ道路がどんな状態であったかには佐藤氏はふれていないが、現在の完全舗装の国道からは想像もっかない道であったことだろう。

歩きながら六十里越えや八十里越え、只見線の歴史などにっいて語り合ったという。
佐藤氏は これらを地方開発の重要な課題として取り上げて欲しい、と田中氏に懇請した。
田中氏はそれに応えて、「まず只見線と六十里越えをやろう。それがある程度見通しがついたら、八十里越えに手をつけよう」と考え方を語ったという。
田中氏の只見線と六十里越えへの取り組みは、このとき決心したのかもしれない。

話を元へ戻そう。
只見線全通懇談会は、田中氏を会長に推薦することをその日の結論とした。
推薦とはいっても実際はお願いするのであるが、それから五日後、田中氏が「よし、引き受けた」といってくれたことによって、会長就任がはっきり決まったのである。
年月が過ぎてから振り返ってはじめて理解できることではあるが、今にして思えば、只見線の全通はこのときすでに決まるべき運命に置かれたのだ、といいたくなる。
批判や反対の嵐が渦巻くなかで、にっちもさっちもいかぬ赤字ローカル線の只見線を全通させたのは、田中角栄氏の力そのものであったからである。
このことは後述するが、地元民が束になって政府にぶつかっても田中氏一人の力に遠く及ばなかったことを思えば、只見線はまさに 田中線、以外の何ものでもなかったといえよう。

それこそ歴史の証明することであり、沿線住民の忘れがたいことである。 田中角栄氏を会長に迎えた期成同盟会は、衣替えして再出発したかのように、役員の顔ぶれも 一新した。
副会長には地元の小出町長や入広瀬村長とともに長岡市長が当たり、理事のなかには栃尾市長、 小千谷市長、長岡市議会議長らの名が見えた。
さらに顧問には衆参両院議員から県知事、県の各部長、国鉄新潟鉄道管理局長、地元の県議らが並び、会員には中越の十九市町村長、議員、商工 会役員らが名を連ねていた。
いわば当時の中越地区南部の名士と見られる人物は、片端から拾い上げられていたのである。 地元以外の名士の参加は、おつき合い的なものであったと思われる。

田中氏が会長に就任したからといって、ただちに大運動が展開されたわけではない。むしろそ れまでと同じパターンで、同じ感じで行こうとしていたかのようでもある。
運動は実に根気よくつづけられた。もし只見線になど関係のない遠い県の人がはるか彼方から 小手をかざして眺めていたなら、よくもまあ飽きもせず諦めもせず同じような陳情ばかりくり返 していたもんだ、といいだしそうな根気のよさで、それぞれの機関にあらゆる機会を通じて陳情 活動をやっていた。

只見線が六十里越えの峠をはさんで二県にまたがる関係上、運動もその組織も二筋の道になって進められてきた。
しかしそれは同一目標をめざしてつづける運動としては、力を二分しているようなもので効率が悪い、という論議が出て、一本化しようということになった。
これも後世振り返って見れば至極当然なことで、なぜもっと早くそうしなかったかと思われるようなことではあるが、歴史とはいろいろな試行錯誤の積み重ねの上に築かれていくものであることを思えば、 そのころのやり方を今になって批判することはさけるべきだと思う。

昭和三十四年になって、ようやく両県の運動が一本化された。 三十四年六月十一日、新潟県側の運動の盟主、田中角栄期成同盟会長の東京の私邸に、両県の 地元代表が集まった。
新潟県側は北魚沼郡の町村長と議長、福島県側は只見町長ら十三人だった。 そこで新たに会則を決めている。こうして、期成同盟会は田中角栄氏を軸にしてまわり始めたの である。
物議をかもしながらも、電発事業促進を大きな理由として建設された田子倉ダム建設専用鉄道の任務が、開通後丸二年にして三十四年八月三十日をもって終わりを告げた。

田子倉ダムの堂々たる偉容を見上げながら、只見の人たちをはじめ沿線の住民は、この線が間もなく国鉄に編入されて自分たちも乗れる日が近いのだと、期待に胸をふくらませていた。
ところがどっこい、そうは問屋がおろさな かったのである。 国鉄は、何をもたもたしているのかと気をもむ地元のことなど、まるで考えてはいな かったらしい。

専用線として走りつづけた機関車の煙がとまってから間もなく、九月に入ってすぐ只見 町では飯塚政次町長を先頭に、国鉄、運輸省、電発会社などを歴訪して、早く国鉄の営業線に編入してください、と陳情してまわった。
実は、この陳情活動は専用線がまだ動いていた七月から行なわれていたのであるが、実 際に汽車が止まってからは一層真剣に行なわれたのである。

十月に入ると国鉄の大島さんという調査役が只見線の調査にやってきた。地元はてっきり専用線編入の調査だと思い込み、よろしくお願いしますと低姿勢で迎え入れた。
              
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               工事専用鉄道で只見線との関連が大きかった田子倉ダム

そして十月末には、福島県知事佐藤善一郎氏にもこの問題でどうかわれわれに力を貸してくだ さい、と陳情している。
福島県に限ったことではないが、都道府県の知事など自分の都道府県の隅々までわかっている とは思われない。広い範囲にわたっているのだから、実情はこうだと訴えられればそのときは理解もできようが、日時がたてば印象はうすらぐはずである。
だから同じ県内だといっても、ピン からキリまで知事が取り扱えるものではないと思う。そうであればこそ、何とかして知事を引っ 張り出してこの運動に参画させたい、と地元の人たちは考えたわけである。
確かに一県の知事が国鉄なり政府なりを相手に働きかけるのと、一つの山間部の郷あるいは町や村が働きかけるのとでは、受けとめる側の態度も受けとめ方も違ってくると思われる。
それは今でも同じことだろう。 新潟県側でも福島県側のこうした動きに呼応して、早く早くと国鉄や運輸省の尻を叩いてきた。
そんなに両県の沿線住民が一生懸命になっているというのに、国鉄はのらりくらりと色よい返事はせず、地元では一体どうしてくれるんだと怒鳴りたいような気持ちになっていた。
そんなところへ、三十五年四月二十四日付の新聞紙上に十河国鉄総裁の談話として、「国鉄は専用鉄道を買収する考えはない」ということが明らかにされた。

これを見た両県地元民は、びっくりするとともに大いに慣概し「冗談じゃないよ。約束が違うじゃないか」というのが地元民の偽らざる気持ちであった。 「専用線は田子倉ダム建設工事を終了したあとは、国鉄の営業線に編入する」という閣議了解を建設前の昭和三十一年一月三十一日に取り付けているはずで、それを信用したればこそ父祖代々の土地を提供してきたではないか、工事の騒音にも濁水にも堪え忍んできたではないか、と関係地域の住民は大いに怒ったのである。
アタマにくるという俗ないい方があるが、このときほどアタマにきたことはないと、当時の関係者はいったものである。

時が移れば以前の約束など知らぬ存ぜぬで押し通そうとするのが、日本の政治の悪い習癖だなどと論じ合い、やたら政治評論家が多くなった感じのなかで、国鉄には国鉄なりの言い分があっ た。
電源開発株式会社は「この専用鉄道を一五億円で買い取ってください」と国鉄にもちかけていた。
国鉄にしてみればそれこそ「冗談じゃないよ」で、もともと田子倉の電源開発事業のために建設した鉄道なんだから、その目的が達成されてしまえばあとは要らないものであるはず。
われわれは買い取ると約束した覚えはないので、タダならもらって上げましょうというのである。

さあことは面倒になってきた。
国鉄のいい分はまだまだつづく。
この線を営業線として引き継ぐためにはまず防雪施設を造らねばならないし、もともと中古の材料を多く使って建設してあるのだから、お客を乗せる営業路線とするためには、あらゆる点で安全のための手直し工事が必要になってくる。
それには新たに七億円から八億円を投資しなければならない。
しかも営業線としては、どうソロバンをはじいても赤字は免れない。
とてもじゃないがこんな 鉄道を一五億円もかけて買い取るほど国鉄のサイフは豊かではありませんよ、というわけである。
運輸省も基本的にはこれと同じ考え方であったので、地元としてはますます「ペテンにかけられた」と怒ったわけで
ある。
電源開発側がはじき出した一五億円という売り値は、建設費二二億円から原価償却費を差し引いた分として出てきたものであり、電発会社はこれが妥当な価格だと主張していた。
この一五億円を値切られることは即田子倉発電所の電力料金の原価計算にはね返ってくるので、波紋は地元くらいでは収まらなくなるというのである。

地元、国鉄、電発と三者三様のいい分が、複雑微妙にからみ合いもつれ合って、煙の止まった 機関車を乗せたまま、二七・七キロの田子倉ダム専用線は宙に浮き上がってしまった。
こんな約束違反が許せるものかと怒ってみた地元も、怒りっばなしでは念願は叶わず、腹のうちは煮えくり返るようでも、表面はあくまでもお願いする形をとらねばならない日本の政治社会にあって、やむなく陳情という形式をとらざるを得なかった。

しかもそれを強力に行なうために、沿線町村あげての一大署名運動を展開したのである。
それまでは陳情といえば行政が先頭に立ってきた只見線であるが、このときは青年団や婦人会が発起人となって署名運動にかけずりまわった。
みんながよほど腹に据えかねていたことが、そのことからもわかるのである。

住民の意識が盛り上がってきて、目的を達成するまでは一歩も退かぬという感触がわかったの だろうか、それとは関係なしに行なわれたことであろうか、とにかく親分、同士がのり出してきた。
つまり運輸省と通産省の折衝となり、さらに経済企画庁総合開発局が仲に立って調停をつとめることになった。
その調停案ができて両者に示されたのが六月十六日であったが、それは、
①只見線(会津川口ー田子倉間)を電源開発株式会社から国鉄に譲渡する価格は八億円とする
②国鉄は右金額を昭和三十六年度以降五カ年に分割して電源開発株式会社に支払うものとする
③譲渡する時期は昭和三十五年九月三十日とする
という内容を骨子としたものであった。
これで受け容れられるかどうかについて、両省はもちろん検討した。
電発会社にも国鉄にも、それなりの事情と理由があったればこそ難航していたわけだから、調停案が示されたからといって、はいそれではというわけにはいかなかったのである。
結局この調停は不調に終わって、両省の歩み寄りは成らず、提示された内容も物別れのまま分 解消滅してしまった。

十月になると、三七○億円を注ぎ込んだ田子倉ダムも発電所もでき上がったが、肝心の鉄道問題はさっばり進展しなかった。
只見町を中心に南郷、金山の三町村が専用線の国鉄編入を期して、十二月には期成同盟会を組織して中央陳情をつづけた。そのころは福島県知事も一緒に上京してくれることが多かった。
昭和三十六年春、とにかく大攻勢をかけようということになって、五月十八日から二十一日に わたり一○○人の陳情団が上京した。
一人一人が「只見線国鉄編入要望」と染めぬいたタスキを かけ、プラカードを押し立てての大陳情団であった。
このとき福島県の代議士で、内閣官房副長官をしていた八田貞義氏が骨を折ってくれて、十九日に池田勇人総理に陳情団をあわせてくれた。
そこで直訴が行なわれたわけである。
そのとき池田総理は、「それはすでに閣議了解事項だから、決して心配はいらない」 と言明してくれたのである。

この総理の一言で地元はどんなに安堵したことか。一○○人もの 大陳情団を仕立てた甲斐があったと喜んだのである。
運輸省がどう言おうと、国鉄がどうしぶろうと、総理大臣がああいうんだから大丈夫だというわけである。

それから一カ月足らず後の六月十六日、経済関係閣僚会議で、専用線の買い上げ価格が、三億 六○○○万円と決まった。
これで一切が解決したといってもよかった。
政治というものはまことに奇妙なもので、不思議もあれば不合理もあり、ときには矛盾もある。
それらが堂々とまかり通る世界である。

電源開発、国鉄、政府、地元と四者がからみあって、やいのやいのとにぎやかだったこの編入問題のころは、すでに只見線を含む赤字ローカル線の廃止論がさかんであった。
廃止論が渦巻くなかで、三十六年七月十四日の第三十一回鉄道建設審議会では、審議会長保利茂の名で次の鉄道 新線建設に関する建議がなされているのである。

「会津川口より只見に至る鉄道建設は、(中略)昭和三十一年一月三十一日の閣議において、ダム 完成後は日本国有鉄道の営業線に編入するよう処置するものとする旨了解されている。(中略) よってこの路線は着工線として所要の措置を行なうを適当と認める」
あて名は総理大臣はじめ経済企画庁長官、大蔵、通産、運輸の各大臣である。
専用線の国鉄への引き渡しの時期は、三十七年三月三十一日とされた。
電発会社にしてみれば、 当初予定した一五億円の四分の一以下に徹底的に値切り倒された感じであり、国鉄にしてみれば タダならもらってやってもいいつもりが、三億六○○○万円もかけて大変な赤字お荷物を背負い 込まされたという印象だったに違いない。
予定より遅れもしたし、陳情のためのたびたびの上京などで経費も使いはしたが、やはり地元 が一番トクをしたといえるのだろう。

決まった以上はやるだけはやらねばならないと、三十七年春から防災工事や横田、蒲生、只見 などの駅舎の建設が始まった。
国鉄は三億六○○○万円で買い取ったこの鉄道に、さらに八億円も投資して安全施設などを整えてから営業運転を開始した。
当然といえば当然のことであるが、安全対策上に不完全あるいは不安が残る状態では、人を乗せた列車は走らせるべきではないという考え方に基づいた投資であった。
その運転開始は三十八年八月二十日であった。

三十一年八月にレールが敷かれてから丸六年ぶりのことである。 地元の喜びようは大変なものだった。
とくに奥の只見町の人たちは、これでやっと人並みになったような気がしたという。
田子倉ダムも発電所も町の自慢の一つであったが、それがこの鉄道の営業運転開始でぐんと価値が上がったように思われた。
そのころはまだ観光事業への力の入れ方は小さかったが、それでもダム湖という大きな観光資源を横付けにして、そこへ鉄道が加えられたのだから、地元にとっては本当に大きな喜びであったわけである。

車内にダルマストーブ

電源開発の専用線が国鉄営業線に編入されて、只見線の未開通区間は大白川から只見の間だけになった。
県境を渡るこの区間は一三・七キロあるが、そのうち大白川から七・五キロにはすでに道床もできていたし、橋脚も立てられていた。
あとわずか一六・二キロで両県の多年の願いが 叶うのだから、何とかして全通を促進しなければと、両県の地元は一層この運動に力を入れたのである。

もっともこれよりかなり以前、ともに県境をへだてて隣同士の新潟県入広瀬村と福島県 只見町は、どちらからともなく交流と協力の気運が高まり、どちらも同じ目的に向かって進んで いるのだからと、両町村で協議会を設けて陳情活動を始めていた。

田中角栄氏が期成同盟会の会長になってからは、只見線の全通運動は田中氏の私邸がその本拠地のようになった。新潟県側でも福島県側でも、陳情のため上京したときは、いったん田中氏のもとへ結集して、そこで打ち合わせたのち、誰々は何省へ向かうという具合に、分散するやり方 がとられるようになった。もちろん、まとまって行動することも多かった。


長くなるから本日はここまで。続きは後日

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