私の昭和史-8

私の昭和史は大学入試合格のところまで行って2年近く中断していました。
その過去記事です。
その1:http://katintokei.at.webry.info/201108/article_35.html
その2:http://katintokei.at.webry.info/201108/article_36.html
その3:http://katintokei.at.webry.info/201108/article_38.html
その4:http://katintokei.at.webry.info/201108/article_40.html
その5:http://katintokei.at.webry.info/201108/article_41.html
その6:http://katintokei.at.webry.info/201108/article_53.html
その7:http://katintokei.at.webry.info/201108/article_59.html

先日仙台の下宿のおやじさん・おばさんの墓参りをしました。
そのおやじさん・おばさんの思い出がちょうど私の昭和史の続きになります。
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私の郷里は「いわき」だから、大学のある仙台に住まいを探さなくてはならなかった。
当時の丸光デパートに勤める有路さんという父の従兄に下宿を探してもらった。
その下宿のおやじさん(和彦)は当時41歳、おばさん(艶子)は32歳だった。
その時おやじさんも初めて下宿を始めたのだ。
9歳の順子ちゃんと7歳の文彦ちゃんがいた。
私が下宿に入った初日に順子ちゃんが可愛くお茶を給仕してくれたのを昨日の事のように思い出す。
私と同時に会津出身の謙ちゃんが同じ下宿に入った。

今は跡かたもないが八幡2丁目13番地におやじさんの家はあった。
おやじさんは山形市出身、おばさんは宮城県山元町出身で二人でテーラー(背広仕立て)をしていた。
背広の注文を取って来るのは丸光デパートの有路さん。
おやじさんとおばさんの仕事場はその下宿そのもの。
二人が息を合わせてもくもくと仕立てをしている姿を今でも忘れられない
アイロンがいつも手元にあり仕立てながらアイロンを当てていた。
仕付け糸の扱い方などは私の知らないプロの世界だった。

おやじさんは大の酒好きで晩酌は毎日欠かさなかった。私もよくお相伴をした。
あの頃はお互い経済的に余裕がなかったから安いウイスキーだった。
そのウイスキーを調達したのが次のブログに出てくる松原酒屋だった。

昼は学食だったが、休みの日はおばさんによくお昼をご馳走してもらった。
いやご馳走なんてもんでない。もう勝手に台所を漁り勝手にご飯をたべていたと言うのが実態。
下宿と言ってももう家族同様だったのだ。
だからおやじさん・おばさんの実家にも泊まりで遊びにも行った。

下宿は最初は謙ちゃんと私の二人だったが、途中から誠ちゃんが入って来た。
そしてその後、誠ちゃんと栗城君が入れ替わった。
近所に住む風間君・鷺君・大竹君などもよく下宿に遊びに来てくれた。
それらの仲間とおやじさん家族で新川でいも煮会をしたのが一番の思い出だ。
(ようやくみつけた当時の写真、昭和47年ころ)
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そして4年が経ち我々が仙台を離れる段になっておやじさんは下宿をたたんだ、
だから楽しかった下宿生活は我々が最初で最後になった。
その後おやじさん家族は子平町に越したので八幡町の下宿屋はそのうち跡かたもなくなった。

そしておばさんは若くしてこの世を去った。(昭和52年1月41歳)
私が大学を卒業して社会人になって2年も経ていなかった。ガンだった。
おやじさんが藁をもつかむ思いで丸山ワクチンを東京までもらいに来ていたがだめだった。

順子ちゃんは社会人になって結婚しイスラエルに移住した。
そしておやじさんは平成14年12月に75歳で亡くなった。
文彦ちゃんは古川に住んでいるがこのところ音信不通だ。

なんとか下宿仲間と順子ちゃん文彦ちゃんと一緒に会いたいものだ。

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