只見の思い出・浅草岳

「浅草岳(あさくさだけ)は、越後山脈に位置し、新潟県魚沼市、福島県南会津郡
只見町にまたがる第四紀火山である。標高1,585.5m。一等三角点「浅草岳」設置
。越後三山只見国定公園に属する。」
これはWikiによる浅草岳の冒頭紹介文である。
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しかし私にとっての浅草岳は只見だけの山であり、未踏のあこがれの山だ。
私が小学5年まで暮らした只見の街からは、頂上付近しか見えない。
当時、夏でも頂上付近には白いものが見られた。雪渓だったのだろうが、
最近暖かいから、今はどうだろう。
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只見から離れて「伊南川」の上流に行くとかなりよく見えるが、前山に邪魔されて
全貌は見えない。従って上記Wikiの写真のような景色はまだ見たことがない。
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未踏のあこがれの山なのだが、小学3年生の頃、子供だけで登りに行ったことが
ある。でもあっさり敗退してしまった。
今回はその時のことをメインに50年前の只見のことを思い出してみたい。
なお田子倉ダムに関しては既にお話したのでそちらを見て欲しい。

その日は「電発(電源開発株式会社)」のグランドで朝から草野球をしていた。
誰かが今から浅草岳に登りに行こうと言い出して、5~6人で行くことになった。
はっきり覚えているのは、リーダーが2歳上の従兄弟だった。
多分彼が行こうと言い出したのだろうと思う。
次の写真はその時のメンバーが写っている、田子倉ダムの上での写真だ。
この中に登山に参加した者は少なくとも3名は写っている。また少なくとも3名は
他界している。バックに日本のマッターホルンと言われる蒲生岳がみえる。
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当時、浅草岳は中学生になると、学校行事で登山をしていたと記憶するが、私の
姉はすでに登っていたし、リーダーがルートを知っていたので、その時は浅草岳
登山を気軽に考えていた。
一旦、みんな家に戻りおにぎりとバス賃をもって集まり、バスで叶津まで行った。
そこから登山口の入叶津までは結構な距離がある。
当時、入叶津から登るルートの名前など、あったかどうか知らないが、今調べて
みると沼の平コースである。途中の登りのことはよく覚えていないが、ブナの木が
いっぱいあるのを初めて見て、これがブナの木かと感心したこと、山の中に結構
大きな沼があり、そのあたりでおにぎりを食べたことを覚えている。
それからしばらく登ったが、とても頂上までは無理とリーダーが判断して、途中で
引き返した。今考えてみると賢明な判断だったと思う。
帰りは疲れと登れなかった悔しさで元気がなく、しょぼしょぼと下った記憶がある。
登山口に辿りついた時はもう薄暗く、バス停まで歩いているうちに、本当に暗く
なってしまった。懐中電灯など誰も用意していなかったので、月明かりの中を
泣くような気持で歩いていたら、前方からライトを点けた車がやってきた。そして
目の前に止まった。何と降りてきたのは父だった。
暗くなっても帰らないので、心配して電発の車で、探しに来たのだった。
当時、個人の車などない時代だった。父が勤めていた電発のランド・ローバーを
同僚に頼みこんで出してもらったのだ。
この時初めてこの車に乗ったが、それ以来私は近年までこの車をランドルバー
と覚えこんでいた。父がそう言ったからである。
その時は軽率すぎると父にこっぴどく叱られた。あんなに叱られたのは後にも先
にもない。父の同僚の運転手は得意になって飛ばすので、でこぼこ道でバウンド
して頭をしたたか天井に打ち付けたことは忘れられない。
でも父が車を出してくれたことは、友達の手前誇らしく思ったものだ。
父に叱られた記憶のもう一つは姉と大喧嘩をして、真冬に外に出され雪の上に
二人とも裸足で立たされたことだ。めそめそ泣いたことを覚えている。
でも、この時は母がすぐに助けに入ってくれて、あまり冷たい思いはしなかった。
多感な小学生時代を過ごした只見にはいっぱい思い出があり、それをいちいち
話し出したらきりがない。
今一番懐かしく思い出すのは、夏休みに毎日「伊南川」に泳ぎに通ったことだ。
当時只見川は綺麗だったが上流でダム工事をしていたせいか、なぜか只見川
では泳がなかった。
当時は自転車さえ満足になく、どこへ行くにしても自分の足が頼りだった。
家から泳ぎ場まで1Kmほどあり、炎天下を歩くと決まって途中に有ったアイス
キャンデー屋に寄って、キャンデーを買ったものだ。
キャンデー屋は只見川に架かる常盤橋のたもとにあったが、そこから只見川に
水道管が垂直に降りていた。わたしは只見川の水がキャンデーの原料に使われ
ているとずっと思っていた。当時は飲めるくらい綺麗だったから。
後年、冷却の原理を学んで、それが冷却水だったことがわかって、キャンデー屋
さんに悪いことしたなと思った。写真は大昔の吊り橋だった頃の常盤橋であるが、
私が小さいころはまだ現役だった。この対岸の橋の左にキャンデー屋はあった。
(ここに写ってい右端の人物は娘時代の私の母です。)
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次の写真は現在の常盤橋と護岸が整備された只見川だ。手前の河川敷にダム
建設用の舗装された道路があった。
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ついでに1979年ころの只見川もお見せするが、手前の道路がダム建設道路で
役目が終わり20年経ち舗装もかなり荒れている。まだ護岸は整備されていない。
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またキャンデー屋の近くに可愛い同級生が住んでいて、帰りにわざわざ遠回りし
てその娘の家の前を通ったりもした。今その娘はどうしているだろうか。
泳ぎ場は岩場のある深みで、潜りが得意だった。白い目立つ石をぽんと投げ入
れて、友達と競ってそれを拾いに潜ったりした。浅瀬にはカジカが沢山いて、ヤス
と箱メガネでカジカ突きをよくした。大物は少し深い所にいる。それを狙うときは
水中メガネで潜って突いた。キンギョバチという刺されると凄く痛い魚もいた。
石をどけて現れるとドキッとしたものだ。
でも、それ以来カジカ突きはしたことがない。思い出すだけで涙腺が緩んでくる。
写真は20年ほど前の「伊南川」で、泳ぎ場はこの橋の近くだった。写真の人物は
私と同級生の従兄弟で、浅草岳登山に一緒に行った一人だ。
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父と冬の終わりころ、雪がまだ残っている川に行き、魚が潜んでいそうな石に石
をぶち当て、ショックで魚を気絶させる漁をしたこともいい思い出だ。

父が勤めていた電発は只見で文明の最先端を走っていたのだと思う。子供心に
何でも揃っていると思ったものだ。床屋も会社の中にあって、そこにかかるのが
楽しみだった。父が決まって売店でチョコレートを買ってくれたからだ。
映画もよく見せてもらった。ドキュメンタリーばかりだったような気がするが、佐久
間ダムの工事の記録映画もここで見せてもらった。ダムってすげーなーと思った
が、田子倉ダムはそれよりも大きくなると聞いて驚いたものだ。
写真は1979年の只見川で、対岸の広い平地が電発があった跡地である。
人物は?心配することはない。若かりし頃の我が女房だ。
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満足に自動車も走ってない只見に、工事用の鉄道が敷かれ蒸気機関車を見た
ときは、一躍都会になったような優越感を覚えたものだ。
冬になると道は全て雪に埋まってしまうが、工事用の道だけは除雪されていた。
小学校の同級生の中には他所から来た電発の社員の子供が何人かいたが、
みんな都会人に見えた。(私の父は現地採用)。
私は彼らと仲良くなって電発の社宅によく上げてもらったが、都会の匂いがぷん
ぷんして、とても自分の家には恥ずかしくて上げられないなと思ったものだ。
でも遊びに来て、何食わぬ顔で上がってくれた時には、嬉しかったし相手が大人
に見えた。その時、差別はいけないという事を教えて貰った気がする。
その時の友達はダム工事が終わって只見を去り、それ以来会ったことはない。

私もそれからほどなく只見を出て今の勿来に戻った。勿来は生まれた所であり
小学5年から大学まで住んだので、故郷はこっちだが、只見はもっと郷愁の漂う
第2の故郷である。これからも何度か訪れることになるだろう。

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