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zoom RSS 「パール判事の日本無罪論」の解説・水間政憲

<<   作成日時 : 2017/07/17 17:09   >>

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田中正明著書の小学館文庫の「パール判事の日本無罪論」が同じ小学館で新書として出版されました。
中身は全く同じで新書は百田尚樹氏が巻末に特別寄稿しています。
どうして同じ本が小学館文庫と小学館新書で出版されたのでしょうか。

https://youtu.be/hiTMQPyEeOg



以下2001年に出版された「パール判事の日本無罪論」で田中正明氏が絶賛した水間政憲氏の解説全文です。



解説 ラダ・ビノード・パールと田中正明氏  水間政憲(メディア評論家)
田中正明氏は、普通選挙運動の発祥の地、長野県伊那谷にて、明治四十四年二月に生まれた。
当時、長野県は我が国の主要輸出品である絹製品を生産していた土地柄とあいまって、近代国家として資本家と労働者の問題を先導できる進歩的条件がすべて整っていた。
そのような政治風土の中で育った田中正明氏は、幼少の頃から社会への関心を強くはぐくみ、高等小学校卒業後、三人兄弟の長兄として家業を手伝っていた。しかし、向学心を押 さえることができず、二年遅れて、旧制飯田中学へ進むのである。
 一九二九年(昭和四年)、ニューヨーク株式市場の大暴落による世界大恐慌の影響は、養蚕を主産業としていた長野県に、甚大な被害をもたらした。そのような社会情勢から、赤旗を振って長野県の伊那谷を日本のモスクワにしようとする共産化運動が燎原の火のごと く燃え広がっていた。
 それに対抗する講演会が、昭和五年、飯田市で開催された。当時旧制中学五年生の田中正明氏は聴衆の中にあった。講師の平凡社の創立者下中弥三郎と法政大学教授中谷武世に よる「我が国の伝統にも基づいて、錦の御旗を振って改革をしよう」のことばは、田中正明氏のその後の人生に決定的な影響を与え、また、その講演会が縁で、田中氏は両氏の知遇を得ることとなる。旧制中学卒業後、大学進学は家庭の事情からあきらめざるを得ない 状況であったが、下中、中谷の両氏が教授をしていた興亜学塾に推薦で進むことになった。 当時、興亜学塾の塾長は拓殖大学副学長の満川亀太郎、教授陣には、大川周明、太田耕造 (文部大臣、初代亜細亜大学長)など、そうそうたる人物が教鞭をとっていた。
 昭和八年、当時参謀本部第二部長であった松井石根陸軍少将のせつなる願いで、孫文の 大アジア主義を基調として、日中両国民の固い協力を柱に全アジアの団結と解放を志すこ とを目的とした「大アジア協会」が発足。松井少将は、自他ともに認める親中国派の代表 であった。その大アジア協会の機関誌『大アジア主義』の編集長に、田中氏が抜擢された。 大アジア協会の会長には松井石根、理事長下中弥三郎、常任理事兼事務局長中谷武世、発起人として、公爵近衛文磨、広田弘毅などの陣容であった。
 大アジア協会はインドのラス・ビハリー・ボース、ベトナムのクオン・デ侯、インドネ シアのハッタ博士(のち副大統領)、フィリピンのリカルテ将軍とラモス氏(ラモス大統領の父)、 ビルマのアンサン将軍(アンサン・スーチー女史の父)、トルコのクルバンガリーなど、アジア各国の亡命者や、独立運動の志士たちを支援していた。

《松井石根大将との出会いと中国》
パール博士と田中正明氏を語る時、東京裁判でA級戦犯として処刑された松井石根大将との関係なくして、理解することができない。
 田中正明氏は、大アジア協会に昭和八年から昭和十七年まで在籍。そして、昭和十二年 に松井石根会長が南京攻略戦の中支派遣軍司令官になるまでは、松井会長の秘書兼会報の 編集長として働いた。
 当時の中国では反日・侮日運動が吹き荒れ、南京の蒋介石政権に対して広東・広西両省は胡漢民を中心に「西南政務委員会」が組織され、南京政権に対して、一大敵国の観を呈 していた。孫文・胡漢民とは同志として交流していた松井石根大将は心を痛め、蒋政権と 西南政務委員会の平和統一を促す行動に出たのだ。松井大将は、明治四十年に蒋介石が日 本に留学した際、下宿の保証人など身辺の面倒を色々と見ていたことからわかるように、友人以上の関係であった。
 昭和十年二月十日、松井石根大将は、田中正明氏を秘書として下関より西南へ出航する。現地にて、松井大将は双方に向かって、「孫文先生は「日本なくして、中国なし。中国なくして、日本なし。日中の関係は唇歯補佐(くちびると歯の関係)、切っても切れない関 係だ』と言われた。孫文先生が唱えた『大アジア主義」の精神にたち還れ」と説得し、その具体的な方法を私案として提示した。それらの会談で日中和平の道は「望みなきにあらず」との感触を得て、当時の広田首相に報告し、なおかつ日本軍部の突出を牽制することを申し出たのであった。
 しかし、この年の十二月十二日に勃発した、中国共産党の陰謀による西安事件によって 蒋介石は逮捕され、状況は一変した。その後、共産党の謀略による慮溝橋事件、通州事件( 日本人居留民が、中国人に二百数十名虐殺された)、上海事件 大山大尉惨殺事件)、南京攻略戦へと進行した。
 後日談なるが、岸内閣総辞職後の昭和四十一年九月十九日、岸信介元総理のはからいにより、田中氏は台湾を訪れた。現地では蒋介石総統の命により、準国賓の待遇を受けた という。道中は、田中氏一行の飛行機に護衛の戦闘機までつくという丁重さであった。最 後の蒋介石との会見には、何應欽将軍はじめ多くの要人も同席した。しばらく憩談した後、 ひとりひとりが総統に謝辞を述べ、総統から握手を賜ることになった。田中氏は総統に敬礼してから、「私はかって閣下にお日にかかったことがございます」と申し上げた。蒋総統にいつかと問われて「一九三六年(昭和十一年)三月、松井石根閣下にお供して、南京 でj」と申し上げたところ、蒋総統はふるえ声で、「松井閣下には、申し訳ないことを しました:」と田中氏の手を二度、三度強く握って離さず、むせぶように言われ、眼を 赤くして涙ぐまれたという。
 松井石根大将は陸軍大学校を首席で卒業した後、エリートが行く欧米ではなく、自ら愛する中国を希望して、北京、上海など、中国に十六年間駐在武官として赴任した。 雨京攻略戦当時、終生熱愛してやまない中国との戦いの総司令官に任命されたことは運命のいたずらである。
 南京において日本軍は、残虐行為を行い、非戦闘民を大虐殺したかのように言われてい る。しかし実際には、南京攻略戦の途中、松井大将は焼け跡から赤子の泣き声が聞こえる と、秘書の岡田尚に「捜してこい」と命じたというエピソードも残っている。救助した女の赤子を温泉に入れ、毛布にくるむと、松井大将は目を細めて抱き上げた。松井の字を 取って松子と命名してかわいがり、ミルクを飲ませて育てた。南京の入城式には、岡田秘書はこの赤子を背負って入城したという。(「南京事件の総括」田中正明著、「興亜観音」創刊号に よる)
 また、帰還後の昭和十五年には、「死んだら敵も味方もない。よろしく一緒にまっろうで はないか」と松井大将は提案し、日中両軍の鮮血で染まった激戦地の土を取りよせ、陶製 の観音像を作り、興亜観音と名付けて、熱海市伊豆山に祭祀した。
 松井大将は、その興亜観音の山裾に庵を結び、昭二十一年四月二十九日にA級戦犯と して起訴されるまで、堂守として、雨の日も風の日も二キロ以上の参道を観音堂の参詣と 朝夕の読経をかかさず、修行僧のような生活を送っていた。そして巣鴨プリズンでも、興亜観音に向かって座禅し、処刑されるまで朝夕読経三味の日々であった。

《言論統制の中での刊行作業》
田中正明氏は昭和17年十二月出征、昭和二十年に復員後、長野県に戻り、南信時事 新聞編集長として活躍していたが、昭和二十年にGHQ公職追放令(G項により職を 解かれた。その後、松井大将がA級戦犯として起訴されたことを知り、急遽上京したのである。松井大将が起訴されてから、田中氏は松井大将の無罪を信じ、巣鴨プリズンを訪ねたり、東京裁判を傍聴したりして、暗澹たる時代を過ごした。
 昭和二十四年一月十日、松井大将の密葬の席で、田中氏は、東京裁判弁護団副団長清瀬一郎(のち衆議院議長)と松井大将の弁護人伊藤清の二人から、東京裁判十一名の判事の中でインド代表パール判事が、この裁判は国際法に違反するのみか法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法定主義を踏みにじった復讐裁判のリンチに過ぎない、よって全員無罪であると堂々たる法理論を展開されたことを初めて聞いた。
 その日を境に、田中氏は、松井大将の名誉の回復と罪悪感に打ちひしがれている国民に 警鐘を鳴らしたいとの信念から、清瀬、伊藤両氏に秘密保持の念書を入れてパール判決書を借り入れ、学生アルバイトを雇って百万語に及ぶ長文を原稿用紙に筆写させた。しかも、 主権が回復するその日に出版する為に、心血を注いでいたのである。
 当時、GHQはポッダム宣言に違反して、民間検閲局を組織、全国に二万四千人もの日本人を検閲員として配置し、デパートのチラシなどまでも徹底した言論検閲を行っていたのであった。削除または掲載発行禁止条項は三十項日におよび、第一項は、連合国最高司令官(司命部)に対する批判。第二項は極東軍事裁判批判。第三項は連合軍最高司令部(司令官)が憲法を起草したことに対する批判などを禁止していた。(江藤淳「閉ざされた言語空間」文春文庫による)
 そのような状況下での出版準備は、生命の危険さえも伴っていたのである。その逆境の 中で耐え忍び、強靭な意志をもって、田中氏は、昭和二十七年四月二十八日、日本が主権を回復したその日に『真理の裁き・パール日本無罪論』を発刊した。
 昭和二十七年五月十日の朝日新聞一面の広告によると、発売後十三日で三版、六月二十四日には六版と版を重ねていることから、当時二百三十円は決して安い本ではなかったにもかかわらず、大ベストセラーになったのである。 そしてその後の昭和三十八年に出版された本書『パ ール博士の日本無罪論』は、現在でも、我が国の近・現代史を研究する者にとって必読書になっている。

《パール博士の残したもの》
パール博士は東京裁判の判事の中で唯一の国際法の専門家であり、第二次大戦前の1937年(昭和12年)すでに国際法学会の総会で議長団の一人に就任していた。
 東京裁判終了後には国際法学会は圧倒的多数で東京裁判でのパール判定は正しいと評価を下した。
また、博士は国際連合国際法委員会の議長に1958年と1962年から67年までの間、二度も選出されている。
その事実をもって知れば、東京裁判でA級戦犯を 全員無罪としたパール判決の正当性は暗黙に認められたと同じである。
昭和二十七年十月、平凡社の社長下中弥三郎が、「真理の裁き・パール日本無罪論』の出版記念会を開き、パール博士を日本に招待した。各大学や全国各地での約一カ月間のパー ル博士の講演会に下中、田中両氏が随行した。その時パール博士は、田中氏に「東京裁判 で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグが、これほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった」と嘆かれ、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」と概嘆された。(田中正明著『パール博士のことば』)
 法哲学者でもあるパール博士は、昭和二十八年に三回目の来日を果たした。インド哲学者中村元博士とともに、約一カ月間「インド哲学」と「古代インドの法哲学」の講義をする為であった。法哲学とインド哲学において、パール博士と中村元博士亡き後いまだ並び立つもののないほど、両博士は世界の巨星なのである。
 昭和四十四年七月四日に、田中氏は「世界連邦建設同盟」の事務局長として、大阪で開催される世界連邦都市協議会の総会の為に、世界連邦世界協会会長湯川秀樹博士のメッセ ージを持参した。その後、東大阪の司馬遼太郎宅を訪ねた。
 司馬遼太郎から『峠』という新著に署名をしてもらい、はじめ下中先生と平凡社の出版物のことなどを話していたが、しばらくすると司馬遼太郎は「田中さん、いい本出しましたね、ちょっと待っていてください」と言いながら『パール博士の日本無罪論』を書庫から持って来た。赤い傍線を引いたページを見つけると、「ここはまったく同感です」と言い、話題をパール博士に移したという。
 パール博士は、昭和二十七年の来日の際、日本全国を巡回して講演をした。その途中パール博士が何度となく立ち寄った京都は、古代インドを起源とする仏教の東方の聖地とし て、脈々と息づいていた。萌ゆるような、紅葉に染まる京の秋を堪能して、「できることであれば、老後は京都に住みたい」との真情を吐露していたことが、その後も深く田中氏の心に染み入っていたのであった。
 平成七年一月には、パール博士の長男プロサント・パール氏の談話で「父は生前、京都に骨を埋めたい」との思いをしばしば語っていたことが、我が国の新聞で報道された(東京新聞・中日新聞)。その時、すでに田中氏はパール博士が逝去した時の年齢を越えていた。
パール博士のこの言葉がこだまのように響き渡り、次第に、パール博士顕彰碑の建立計画に対して、政財界の中からも賛同者が現れた。そして、パール博士の逝去三十年目の一九九七年(平成九年)十一月二十日、京都霊山護国神社『昭和の社』の正面の丘に『』パール博士顕彰碑『』が完成したのである。
画像

 除幕式には、インド大統領K・R・ナラヤナン閣下からも祝辞が寄せられた。
 昭和六十年八月十五日、中曽根総理大臣の靖国参拝を最後に、内閣総理大臣の靖国参拝は中止された。その状況下で、昭和天皇は昭和 六十一年に「八月十五日」とのお題で、次の和歌をお詠みになっている。
    この年のこの日にもまた靖国の
     みやしろのことにうれびはふかし

昭和天皇がこのような和歌を詠まれなくては ならない状況を、内閣総理大臣およびマス・メ ディアはいかに受けとめているのであろうか。
平成十三年七月、小泉内閣総理大臣の靖固神社参拝や歴史教科書の問題を、我が国の反日メ ディアは大々的に報道した。また、中国の唐家璇外相の「やめなさいとゲンメイ(厳命・言明) しました」との発言など、内政干渉が頂点に達 していた。
それと時を同じくして、武蔵野の蝉時雨をあびながら、田中正明氏宅を訪ねた。それは、小学館文庫より再出版されるこの書の準備の為であった。計画の概略を聞き終えると、田中氏は、満面笑みを浮かべて、おもむろに筆を手にした。

         汝は我の子と
           まで宣らせ給ひける
            博士の温顔
              京にしづまる


この書が、ダイヤモンドのごとく真理の光彩を放つとき、手にした人々が、無意識にす り込まれていた東京裁判史観というマインド・コントロールから解かれるることを祈り、 田中正明氏に感謝して、武蔵野をあとにした。

平成十三年盛夏


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