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zoom RSS 吉田松陰・東北遊歴の碑

<<   作成日時 : 2011/02/02 01:24   >>

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吉田松陰が長州藩を脱藩し東北地方を旅した時、なんと我が郷里のいわき市勿来町の植田の宿で一泊しています。
今回はその話です。
吉田松陰についてはあまりにも有名なのでその辺の話は端折ります。
松陰が宿泊した植田にはその記念碑が建っており、そこには次のような文章が刻まれています。

表面は
「殉国」と横書きで、縦に“吉田松陰先生遊歴の地”内大臣従二位勲二等侯爵 木戸幸一謹書
と書かれているがこの木戸幸一は明治の元勲・木戸孝允の子孫である。
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裏面は
『吉田松陰先生著 東北遊日記抄』
 嘉永 壬子 五年 正月廿三日 翳、出野口家、云々、越勿来故関 而今道則山下海濱也、過關田荒蜂大島、渡鮫川、宿上田、行程四里、至平潟、常陸盡焉、水戸領則止于大津、大津以東、小國封地参錯、平潟為棚倉侯松平周防守所領、關田、上田、為平侯安藤長門守所領、、荒蜂、為泉侯本多越中守所領、・・・以下略
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碑文に私的にはお馴染みのローカル地名が見られ、ちょっとうれしくなる。例えば、勿来関、關田、大島、鮫川、平潟などなど。

東北遊日記では「嘉永5年(1853)1月23日、水戸領の常陸から勿来関を越え、鮫川の渡しを船で渡り、上田(植田)に至って泊った」ということが記されており、この時松陰23歳です。

この前後のことをもうすこし詳しく述べると、松陰は,北辺の守りを実際に歩いて自分の目で確かめたいという考えをもって脱藩し長州藩江戸屋敷から、東北の旅に出ます。
まず松陰は水戸へと向い、そこで大津浜異人上陸事件で取り調べをした会沢正志斎に会います。
会沢正志斎は後期水戸学に於ける尊皇攘夷論を最も明確に体系づけた「新論」を著した人で、幕末思想界に驚くべく広汎な影響を与え、「新論」は幕末志士に聖典視された程である。また藤田幽谷の後を受けて水戸彰考館総裁となった人物である。
松陰はその後、高萩と磯原を訪ね歩き野口玄珠の野口家に泊り、玄珠は松陰を迎え,酒を飲みおおいに語り合ったといいます。(お馴染みの野口雨情の野口家ですね)
この夜、松陰は仮睡し、漢詩(七言絶句)「磯原客舎」を作っています。(磯原の天妃山の近くに石碑あり)

「磯原客舎」 吉田松陰 

「海樓把酒対長風顔紅耳熱酔眠濃忽見萬里雲涛外巨亀蔽海来艨艟
我提吾軍来陣比貔貅百萬髪上衝夢断酒解灯亦滅涛声撼枕夜鼕鼕」

概訳:「海辺で酒を飲み風にふかれていると気持ちよく寝こんでしまった。
ふとみると大きな海亀のような軍艦(黒船)が押し寄せてくるではないか。
我もまたこの軍艦を迎え討たんと、吾が軍勢を率いて比処に陣どれば、
百万の勇士は怒髪冠をついている。
たのもしいかぎりと思っているうちに夢も酒も覚め、回りは暗くなり
ただ涛の音だけが枕を揺るがすように聞こえるばかりである。」

野口家を出立した松陰は平潟、勿来の関、上田(植田)泉等近辺を巡って田人-御斎所街道-石川-白河に抜け白河から会津若松、新潟、山形、青森、岩手、宮城、会津若松、栃木をまわり江戸に戻りました。

吉田松陰の生涯は29年間でした。しかし、この短い生涯で、わが国の行く末を想う心が、久坂玄瑞、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文などの明治維新を導いた人材を育てたと思うとやっぱり松陰は偉かったな。
その松陰が我が郷里の植田に足跡を残しているのだから、郷土の誇りとしてもっと語り継がなくてはいけないなと思うのであるが、残念ながら地元でもこの記念碑の存在を知っている人は少ないらしい。

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